自殺念慮と自殺前症候群

人々には社会の大きな変動によって自らの身辺が動揺するとき、心理的・生理的に打撃をうけ、憂鬱、焦燥、絶望、孤独、無力感などを感じる「うつ状態」に陥ってしまうのです。

しかし、多くの人々は、周囲の援助や励まし、あるいはふとした発想の転換や自らのがんばりなどによって、なんとか事態の変化に気持ちを順応させます。そのときは、あとになって、「あのとき、よくも自殺しないでがんばったものだ」と、自ら振りかえることもあるくらい、必死に前向きに生きているのだろうと思われます。

この無我夢中でがんばるということが、さまざまな困難な新しい事態にぶつかったときに、大切な( 生きる力)なのですが、さきほど述べたような、神経疲労の状態にあるとか、プライドや競争意識によって思考の柔軟性を失っていると、この「無我夢中でがんばる」力が脚なかったり、困難が限りなく大きく見えたりして、自己否定的な気分を強く感じるようになってしまうのです。

そんなときに襲うのが自殺念慮である。自殺念慮というのは、「自殺したい」「自殺したほうが楽ではないか」という思いにとらわれることです。
自殺念慮自体、正常な心理状態ではないのだが、案外多くの人が体験しているものです。たとえ、そう思ったとしても、「自殺したいなんて、そんなことを考えるなんて、私はどうかしている」とか「そんなマイナス思考では何も解決しない」とか、自ら否定して、立ちなおる人もいますし、いつまでも、「死んだほうがいいのだ」という自己否定の感情に悩まされる人人もいます。

しかし、このような自殺念慮があったからといって、人は自殺するものではないのです。自殺念慮は、「私はダメな人間だ」とか「私は、どうせ役立たずなのだ」という自己否定の感情と同じぐらいに世の中には存在すると考えた方がよいでしょう。

しかし、それに対抗する意識「そんな弱気ではダメだ」「自分がしっかりしなくてはならない」などの自分を激励する感情もまた存在するのです。この自殺念慮を克服する力を、しっかりともっていることが重要なことです。
ところが、自らを激励し、乗りこえていく力が弱って、自殺が決行されるのには、概して受動的な気持ちになっており、そこに一種の強い力が働くようです。

中高年の自殺でよく聞く話は、「遺書もなく、明日の仕事の準備もしてあって、普段と変わりなかったのに」といわれるような発作的な自殺が多いのです。

「私は、これこれの理由で死を選ぶのです」などという文書を書く余裕などはない(もし余裕があったら、自殺念慮に打ち勝つポジティブな思考が働いたであろうと思われる) のです。
そこに、何らかの強制的な病的な心理メカニズムがあると考えられます。その心理メカニズムを明瞭に表現することはできないが、自殺未遂者が振りかえって述べていることなどから、現在、つぎのような自殺前症候群というものが考えられています。

自我意識の狭小化

まず、自我意識についてです。それは自分は自分であるという1つの確信です。「自分は(未熟であっても)がんばれる」「自分はなんとかなる」という自分の可能性を信じて、落ち着いている自分の意識といえばいいでhそうか?

多少ドキドキしたり、ハラハラしたりしても、深呼吸を1つして、「よし、やるぞ」などと自分を激励している自分。そのような自分の自覚です。健康なときは、この自我意識というものは外に向かって開かれており、まわりの変化を受けとめながら、他人と交流し、さまざまな栄養を吸収している発展的なイメージです。
そして、そんなときは、とてもこの自分を大事にしたいと思うものです。

ところが、自殺前症候群にあっては、この自我は、このように外に向かって開かれておらず、中へ中へと閉じこもろうとしている状態です。「自分はだめなのだ」「価値のない人間だ」「みんなとまじわれる値うちはないのだ」と、自分をとても微小な存在とみなしてしまいます。
「この仕事でも、自分はいなくてもいい存在だ」と信じるようになります。感情もマイナスの方向に向いており、周囲の事物への関心もうつろになってしまいます。

対人関係の狭小化

日常的な仕事の話はできるけれども、感情を込めてつきあうというような人間関係はどんどん狭くなっていきます。家族とも、感情的な交流ができないのです。

たとえば、妻などには、「疲れた」とか「もうダメかもしれない」とか本音をもらすけれども、一方的である。たとえば、妻が「がんばってちょうだい」といっても「無理をしないでいいよ」といっても、本人の思考にはあまり影響しないのです。
ある意味では自閉的になっている。ごく限られた人(妻ら)に一方的に話すことはあっても、意見を聞いて会話にするという余裕がない。
だから、対人関係はとても狭くなる。その結果、また「自分には、誰も相談する人がいない」とか「自分はひとりぼっちだ」といって、自分に対する確信がますます弱くなるのです。

価値観の狭小化

今まで生計の中心になってきた日本の中高年男性の場合は、とくに社会的な価値観を強く自覚していました。「自分のがんばりが、会社の業績を伸ばすのだ」「自分が会社の新しい分野を開拓するのだ」「自分が、妻子に不自由のない生活をさせているのだ」「自分がいなかったら、仕事が止まる」など、会社における成績を上げることで存在意義を自ら確認することができるという価値観が、彼らの自我意識を支えてきたといえるかもしれません。

もっと自然に自我意識をつくればいいのだが、日本の高度経済成長の下でつくられた競争原理、会社主義などによって、多くの人々は、社会的地位や社会的評価によって自分を決める癖がついてしまいました。

ところが、過去の業績はともかく、今からどれだけ役に立つかなど、従来の貢献度の基準はなくなってしまいました。自分が頼りにしてきた価値観が外側から崩されてしまったのです。

健康な人は、多くの価値観をもち、柔軟に自己点検をして、自我意識の崩れるのを予防するのだが、あくまでも社会的評価や競争原理にこだわっていると、それがどんどん無価値なものに思えてくるけれども、それに代わるものを見出せないのです。
そして、「自分は、役に立たない人間だ」「とくに、自分が存在する理由はないのだ」などと、自己否定の感情を促進することになるのです。

自殺への幻想

健康なときは、「自殺は怖い」「死ぬくらいならどんな苦労もできる」などと考える。自殺を罪悪視する対応感情も強く、自殺は遠い存在です。
しかし、自殺前症候群になると、自殺はさほど遠いものではなくなってしまいます。

「気持ちが楽になる」「長い眠り」「永遠の解放」などとソフトにイメージされています。それほど強く抵抗しなければならないほどのものではないかと思えるようになります。
「自分だけ楽になるのは卑怯だ」とか「あとに迷惑をかけるのはすまないな」とか、わずかな抵抗はあります。

だから、遺書は、短く「ゴメン」とか「許してください」とか、簡単なものになります。現実に乗りこえるのには、あまりに大きなエネルギーを必要とする困難があり、信じるべき自我はあまりに小さく、社会的に自分を生かす必要も感じられず、かつ、すぐ身近に「楽になる道」があると思えるとき、自殺はささいなキッカケで決行されてしまいます。

そのキッカケは、そんなに大きなものでなくてもいいのです。かならずしも、つらいことや過大なことだけがキッカケになるのではないのです。
長い間の苦労が実って、ホッと一息ということもキッカケになることもあります。自殺前症候群からかならず自殺が起こるわけでもありません。
いろいろのキッカケ(家人が気づいたり、本人が自殺の幻想からふと覚めたり) で、病院で受診して、助かる人なども非常に多いと思います。

そういう場合、診断は、「(自殺念慮もあった)うつ病」ということで終わるのです。以上からいえることは、自殺念慮があっても、人は自殺するのではないのです。
自殺が決行されるときの病的な心理状態が、ポイントになる。この自殺前症候群におちいったとしても、かなり多くの人は決行せず、決行しても未遂で終わっていると思われます。

しかし、今回の統計のように、既遂例がこんなに増えているのは、決行手段がきっと確実な方法をとられているケースだろうと思われます。

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