人間の基礎づくりの時期に土台ができなかった

無力に生まれて、仲間として育てられ、そこで食べ方も、歩き方も教わります。しかしそれ以上に大切なのは、仲間といることを教えられます。

そこでコミュニケーション能力を身につけていきます。うつ病になるような人の場合、それを教えるべき肉親がその人を仲間はずれにしていじめるのです。

小さい頃のいじめは、大人になって会社に入っていじめられるのと大きく異なります。人間としてもっとも大切な基礎をつくるところで、基礎を滅茶滅茶にされてしまいます。土台づくりをする時期に、土台をつくらせないのです。こうして生きる土台がないまま人生をスタートする人もいるのです。それ以後どのような環境になっても、その素晴らしい環境は、かけ算でゼロをかけられた数字のようにゼロになってしまいます。

肉親は、天使にもなれば悪魔にもなるのです。天使になれる力があるから、悪魔になれるのです。

うつ病者の「ひとが楽しそうにしているとますます心が暗くなる」という言葉は十分に考える必要があるでしょう。

普通は「ひとが楽しそうにしていると自分も気が晴れる、明るくなる」。しかし逆に「暗くなる」ということはどういうことでしょうか。

それは「なんでオレだけが、こうなんだ」という気持ちが強いからです。うつ病になるような人は、普通の人と違って自分は特別に辛い人生を生きていると思っています。その不公平感がうつ病者を苦しめているのです。「なんでオレだけがこんな辛い思いをしなければならないんだ」という無念さです。

周囲から心理的に拒否されてきた

彼らは「ひとが楽しそうにしているとますます心が暗くなる」と口を揃えます。この言葉には2つの重要な意味が隠されています。

1つは疎外感です。他人と自分の間に共通性がないと感じています。この言葉に、うつ病者がいかに長いこと周囲から感情的に拒絶されてきたかが分かります。

彼らの淋しさを表しているのです。フロム・ライヒマンがいうようにうつ病者は愛を求めていたのです。しかし、小さい頃から心理的に仲間はずれにされてきたのです。

たとえばうつ病になるような子はその家族の中で優秀な子が多いから、家族の中で嫉妬からいじめられています。いじめられた子はいつも独りぼっちという感覚に陥ります。

肉親の嫉妬は、体験をした人でないとなかなか理解できないところもあります。それは.すさまじいものです。

皆で楽しそうに笑っている人と、それを見て心が暗くなる人との違いを分からないかぎり、うつ病者を理解することはできないでしょう。

うつ病者は淋しいのです。皆と仲間になりたいのです。しかし小さい頃から感情的に拒絶されて生きてきているので、どう仲間になっていいか分からないのです。

ここで「拒絶」という意味は、・相手にとって都合のいい存在にならないかぎり、受け入れられないということです。

また周囲の人の心の慰み者のような存在になっているということです。そこでうつ病になるような人は、いつも仮面をつけて生きてきたのです。

人は、自分が受け入れられているという実感がなければないほど仮面をかぶるのです。仮面の厚さと自信のなさは正比例します。自分が受け入れられているという自信のある人は屈辱感がないのです。

自信のある人は、小さい頃自分の内面を見せても蔑視されて孤立しなかったのです。その集団から追放されなかったのです。

しかし、うつ病になるような人は違った。人はありのままの自分を受け入れられることで、周囲の人への信頼感が生まれる、愛されているという実感を持つでしょう。

したがってうつ痛になるような人は、皆が楽しそうにしていればしているほど、孤独感が刺激されてしまうのです。自分は仲間はずれだという淋しさが刺激されます。そして、それに耐えられなくなってどうしようもなくなるのです。

その重苦しさを「心が暗くなる」と表現しているのです。

彼らはもうどう生きてよいか分からないのです。人間はやはり仲間に受け入れられたい。それが基本的な欲求です。しかしそれが心理的に感情的に拒否されているのです。その苦しさに悲鳴をあげているのです。

人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい

親さえいなければ…もう少しまともに生きられたかもしれない

親のいない子を普通の人は「かわいそうに」と言います。しかしうつ病になるような人から見れば、「親のいない子は何と幸せなのだろう」ということです。

「親から心理的に搾取される」ということが理解できないと、うつ病者を理解することはできません。

うつ病者は「親さえいなければ」、何とかもう少しまともに生きられたのです。

親によって脳がダメージを受けた時、普通の人はそれを理解しょうとしません。その親さえいなければ脳はもう少しまともだったに違いないのです。

後にも説明しますが、偉大な精神病理学者フロムエフイヒマンが言うように、うつ病者は愛を求めていたのです。これをすれば、愛をくれるだろう、これに耐えれば愛をくれるだろうと子供は親に尽くし続けたのです。

悪い男に引っかかった女を考えてみれば分かるでしょう。愛を求めているから、男の言うなりになります。恋に落ちた女は悪い男から搾取され続けるでしょう。恋愛も親子関係も同じです。

愛を求めている側が弱い立場になる。これをすれば「良い子と言ってあげる」ということで、子供は自分を曲げて頑張り続けます。「こぅなれば愛してあげる」ということで、子供は親にとって都合の良い子供になります。そうしているうちに心は憎しみでズタズタになっているでしょう。

憎しみの感情で脳は変形しています。幼児期、少年期、青年期を通しておかしくなった脳は、そう簡単にまともにはなりません。

吐き出されない憎しみの感情に支配されることで、その人は最後には心理的に閉じこもるのです。

もう誰も自分のことは分かってくれないと閉じこもります。周囲の人にとってはその人が何で閉じこもったかは分かりません。その人が何で憎しみを持ったかは分かりません。

その人が何を求めているかも分からないのです。愛を求めているがゆえに閉じこもったのです。愛を求めているがゆえに憎んだのです。

現代の子供たちの大変な現状 | 現代人のストレス

体のけがは目に見えるが、脳のけがは目に見えない

うつ病者は心理的には崖っぷちで何かをしているということが理解できないと、なかなかうつ病者の言動は理解できません。

外側だけを見ていけばうつ病になる人は、時に、「あんないいことばかりして何が不満なんだ」と思われることも多いからです。

うつ病者は正体不明なものに脅かされています。何でこうなるのかが本人も理解できていません。うつ病はモラルの問題ではなく、脳内化学物質の問題であるという点の理解が大切です。

このことはアメリカのニュースがうつ病特集をした時に繰り返し解説されていました。

足に怪我をすれば周囲の人にはよく分かるでしょう。しかし脳の中の変化は外には見えません。

ある時、テレビで視覚障害者がサッカーをしているところが放映されました。すると皆が「偉い! 」と口を揃えます。しかしうつ病者がサッカーをしても「すごい!」と言わないでしょう。眼の機能が完全でも、脳の視覚を司る部分が機能不全に陥ればものは見えないのです。聴覚も同じです。

耳の機能が完全でも脳の聴覚野が障害を持てば聞こえません。傍から見てその人は何かができるように見えるかもしれませんが、外から見えない脳に障害が出れば実際にはできないでしょう。

うつ病者が何もしないでいる姿を見て、人はうつ病者の「やる気」のなさを批判します。見るのも聞くのも、脳で見て脳で聞いているように、人は何かを脳でしているのです。

うつ病はその脳の障害なのです。その点でうつ病者は不当な批判にさらされてきたと言うべきでしょう。

「できない」ということが普通の人に理解できないからです。足の裏に怪我をした人が「歩けない」と言えば普通の人は理解できます。しかし、五体無事なうつ病者が「歩けない」と言っても、普通の人はなかなか理解できません。それは人は足で歩いていると思っているからです。

人は足で歩いているのではないのです。人は脳で歩いているのです。うつ病者はその脳が傷んでいるのです。足の裏の怪我は見えるが、脳の怪我は見えないということです。

幼児的願望を満たしてくれなかったのは親

心理的にいえば、うつ病になる人は崖っぷちで頑張って縄跳びをしているような
ものです。

普通の人は縄跳びをしていれば楽しいのです。外から見えるのはうつ病者であろうと普通の人であろうと縄跳びをしているということだけです。

縄を回しながら飛び跳ねているのだから、外から見れば楽しく見えて不思議ではありません。しかしうつ病者は落ちれば死ぬという崖っぷちで、いま落ちるか落ちないかという危険の中で縄跳びをしているのです。

うつ病者は幼児的願望が満たされていません。周囲の人から愛されて成長していないからです。周囲の人から愛されていないどころか、周囲の人は、

うつ病者が感情を表現できなくて言いなりになることをいいことに、負担を押しつけてきたのです。

皆で利用してきたのです。うつ病になるような人は、不当に押しっけられた負担に抗議ができません。

淋しくて周囲の人から好意がほしいからです。抗議できないから、心の底で周囲に恨みを持ちます。

うつ病者はその憎しみを表現できないままどうにもならなくなっているのです。彼らは実際には動くことができません。何度も言うように、憎しみを持つ相手から愛を求めているからです。

親はうつ病になるような従順な子供の幼児的願望を満たしてやらないばかりか、逆に自分の感情のはけ口としてその子供を利用してきました。

だからうつ病になる人は親をはじめ周囲に恨みを持っています。しかしその恨みを表現できません。

もしその憎しみを何らかの形で表現できれば、うつ病者もうつ病にはならなくて済んだのです。し

かしうつ病者は逆に周囲の人にいい顔をしてしまっています。だから長年の憎しみが心の底に根雪となって凍りついてしまっているのです。

憎しみが心の底にあれば、何をしても楽しくはないのは当然です。

うつ病になるような人には楽しむ能力が欠如しています。生きることが楽しくなるためには憎しみを取らなければなりません。根雪のように心の底に凍りついた憎しみを取り去らなければ、彼らは何を得ても喜べないのです。

長年にわたって憎しみを心の底に堆積させた人は、他人の苦しみだけが喜びになります。アメリカのニュースのうつ病特集の時に、電気治療したうつ病患者が出演して、電気治療の結果、わずかに記憶喪失が起きたということですが、電気治療はおそらく憎しみの記憶を消すのかもしれません。だから電気治療は重傷のうつ病の治療に有効かもしれません。

気分のいい場所にいても気分がよくない

うつ病者に特徴的な感情についてです。彼らには何よりも抑うつ感情といわれるものがあります。それは表現されない憎しみの感情です。表現されない憎しみの感情を心の底に持っていれば、気分のいい場所にいても気分は晴れません。

だからうつ病者はどこにいても暗い顔をしているのです。気分のいい場所にいて暗い顔をしていると、第三者は、「こんな気分のいいとこうらやろにいるんだから、皆から見れば羨ましい環境だよ」と言います。「それなのにそんな暗い顔をしていたら、馬鹿らしいじゃないか」と言います。

人は、生きることに疲れた人と違って心の底に憎しみを堆積させていません。うつ病になるような人や生きることに疲れた人は、気分のいい場所にいても、その気分の良さを味わう心の能力がもうないのです。

心の能力とは生命力です。生きることに疲れた人は生命力が低下しています。「こんな気分のいいところにいるんだから」と言われるとうつ病になるような人は、「誰も本当には自分のことを理解してくれない」という無念な気持ちになるのです。

幸せのターニングポイント

いまあなたは生きることに疲れてしまった。いままでの生き方が愚かな生き方だと分かった。生きることに疲れるという代償を払って、いままでの自分の人生を理解したのです。

幼児的願望が満たされていないのは、あなたの責任ではありません。また不運にも、誰も「ああいう人とはつきあってはいけないよ」と教えてくれませんでした。

生きることに疲れた時は、まさにあなたの生き方を変える時です。生きることに疲れた時は、幸運へのターニングポイントでもあります。生きることに疲れた時はあなたの人生の節目です。

節目があるから竹は先に伸びて行けます。生きることに疲れたあなたは、いま誰に会いたいか? もし会いたい人がいれば、その人がこれからの人生を共に歩む友人です。

もし誰にも会いたくないならば、じつはいままであなたは嫌いな人に尽くして生きてきたのです。

あなたのまわりには誠実な人はいなかったのでしょう。生きることに疲れた時、それはあなた自身が自らを分かる時であり、周囲の人がどういう人であるか分かる時です。

あなたがあなたの人生を理解する時です。無理して生きている時には、あなたはあなた自身も周囲の人も分からないでしょう。それは人間関係を間違える時でもあります。

生きることに疲れた時に、初めて誰を大切にして生きていったらいいかが分かるでしょう。うつ病者はあまりにも真面目に合理的に生きてきすぎたのです。

そうしたことを価値があると思いすぎてしまったのです。だからエネルギーがなくなってしまったのです。

エネルギーのある人は、朝、花に水をかけます。その水のかかった花を見て、「朝だなー」と思います。そして「♪ 朝だ、朝だーよ」と歌いたくなるのです。

生きるエネルギーに満ちている人は、その水のかかった花や葉を見て、花や葉が「おいしい、おいしい」と水を吸っていると思います。

近代合理主義の世界に生きるところにエネルギーの供給源があるのではありません。人間の生きるエネルギーの源は、非合理的な感情の中にあります。人間がまだ洞穴の中に住んでいた時の太古の昔の感情の中にあります。それはいまだに私たちの脳のある部分には残っています。その部分と近代合理主義の法則とは違います。生きることに疲れた人は、自分の中にある「洞穴の中の人間」の部分を少しは解放することです。うつ痛者になつた人はその部分の価値を無視しすぎたのでしょう。

自分の失敗をありのまま打ち明ける

生きることに疲れたうつ病者は、何よりもいま自分の経験を人に話すことがとても大事です。うつ病者は自分の失敗の体験を話すことです。それを話せる人を探すことです。

もし見つからなければ日記でも何でもいいのです。安全なところに吐き出すことです。人に認めてもらうために無理したことを素直に話すことです。

生きることに疲れた人は、心の底にたまった恨み辛みのすべてを吐き出すことです。そうすればきっと幸せが手に入る。それで生きるエネルギーが戻ってくるでしょう。

「自分はこの時にこう感じていたけれども、そう思うのが怖かった」とか、「好かれたいからこうしたけれども、本当はするのが嫌だった」とか、「そのうちに何もかもが億劫になった」とか、自分の失敗の体験をありのままに話すことで、自分を出すのです。

そして生きることに疲れたうつ病者にとって大切なのは、自分のいままでの生き様を信じることです。

失敗したことは恥ではありません。それを肥やしにして幸せを手に入れるのです。「私はこう生きてきた」、それでいいのです。

人が失敗するのには失敗するだけの理由があって失敗しているのです。あなたはたしかに愚かな生き方をしました。ずるい人や卑怯な人に好かれようと無理をして生きてきたのですから。しかしあなたは何も好きこのんで愚かな生き方をしたのではないのです。止むに止まれぬ心の必要性から愚かな生き方をしたのです。

惨め中毒という病気

しかし生きることに疲れた人の中には、こうして憎しみの感情を吐き出すことすらできなかった人が多くいます。安易に正義を叫んで市民運動などに参加できない人たちです。生きることに疲れた人はストレートに憎しみの感情を晴らすことができないし、身代わりを選んで憎しみの感情を晴らすこともできません。

犯罪という形で心の底の憎しみを外に出すこともしない。愛されたくて頑張って、無理をして、そして消耗してきました。そこで生きることに疲れた人は、憎しみをまったく違った言葉で吐き出しているのです。

だから周囲から見れば惨めではないのに、彼らは惨めさを誇示します。「惨め中毒」という言葉が英語にあります。

アルコール依存症の人がいつもアルコールを飲んでいなければいられないように、彼らはいつも自分の惨めさを誇示していなければ生きていられないのです。

自分はいかに周囲の人から酷い日にあわされたか、いかに重い負担を不当に背負わされているか、いかに皆から不公平に扱われたかなどを延々と話していなければ生きていられないのです。

それはなぜか? それは、惨め中毒の人は、自分の心の底にたまった憎しみの感情をどうにもできないからです。その心の底に堆積した憎しみの感情を、惨めさを誇示することで吐き出さないではいられないのです。それが惨め中毒です。

生きることに疲れた人は惨め中毒にかかっています。消耗しているのが周囲の人の目に見えます。いかにも疲れてやつれています。だから周囲の人もあなたと一緒にいたいとは思わないのです。

人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい

もちろんあなたがそうした理由は分かる。他の個所でも書いたように、あなたは淋しいから、愛情飢餓感から人に気に入られようとしたのです。気に入られるために自分を出さなかった…というよりいや出せなかったのでしょう。

生きることに疲れたあなたが、かろうじて自分を出す時には、何かにかこつけて自分を表現してきました。

たとえば、憎しみをストレートに表現できないから、正義を主張することで憎しみを吐き出そうとします。正義を主張しないと、自分の怒りを表現できないから、正義を主張していただけではないでしょうか。

正義を主張する人がどうして日常生活がごまかしに満ちているのでしょうか。

戦争反対の正義を叫ぶ人の中に、隣人に冷たい利己主義者がいないだろうか。家族をほったらかしにして真理を叫んでいる人がいないでしょうか。正義や真理を唱えている人が、いかに実際の日常の隣人の心を傷つけていることでしょう。

彼らは正義とか真理とかを持ち出して、自分の怒りや憎しみの感情を表現しているのです。「人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい」という格言にならって言えば、「正義を唱えることはやさしいが、人の幸せを喜ぶことは難しい」のです。正義や真理を唱えている人の中に、人の不幸にホッとした安らぎを感じる人がいるのは、彼らの心の底に憎しみがあるからです。

そういう人は、そのままでは自分の感情を表現できない弱さがあります。その弱さの実体が幼児的願望です。幼児的願望が満たされない愛情飢餓感です。