ストレッサー

ストレッサーというのは、ストレスの素で心身にひずみをおこすすべての外的刺激といえます。まず、人間にとって最初のストレスは、気温、気圧などの自然現象でした。
さらに、外敵に対する恐怖、たたかうときの緊張なども大きなストレスでした。しかし、人間同士はストレスではありませんでした。

あくまでも、守りあう、助けあう仲間だったのです。人間の長い歴史のなかで、複雑な感情体験を経験するようになったけれども、人間関係の根本は、信じあい、愛しあう感情なです。

人間関係のなかに、打算や憎しみや恨み、競争、あるいは殺意などの感情が生まれたのは、人間の歴史のなかでは日が浅いのでしょう。

かく信じるのは、人間の子どもは全面的に大人を信じて生まれ、育っているという事実からです。これは、動物一般にいえることであって、同種の動物は決して憎みあわないのです。

発情期に雄同士の激しいたたかいもあるが、あれは種族をしっかりと残すための宿命的方法です。人間は、それを乗りこえられる動物であるはずですだ。

人間関係が本当に愛情深い関係に発展する可能性を信じている人がほとんどです。現代のような人間関係が最大のストレスのように立ちあらわれる時代は本当に人間関係が快く、豊かである未来社会の前の過渡期でなければならないと思っています。要するに、本来ストレスでありえなかった人間関係も、競争、憎しみなどのストレスになってきたということです。そして、いつの間にか、人間不信、性悪説などに裏うちされるような「人間として生きていることのつらさ」まで、私たちは感じるようになってしまったのです。

また、「生きていることすら、ストレスだ」という悲しい時代です。

時間、音、光のストレス

そして、さらに生活時間がせわしくなることによって、人間関係をゆっくりと修復させる余裕も、ゆっくりと自然とともに生活する余裕もなくなっています。
つまり、これが「時間のストレス」です。そして、さらに光や音、スピードなどの人工的機械的刺激も大きなストレスになってきています。
電気の発明によって、24時間行動することができ、人力よりも正確で効率的な働きをする機械によって、生産はスピード・アップしました。
機械は、騒音を発生し、人間の鼓膜が耐えられない音刺激を際限なく与えつづけてしまいます。
また、機械はあらゆる音を録音し、繰りかえし聞かせることが可能です。
この昔の再現可能性は、私たちのあらゆる生活場面に入りこんでいます。

この音のストレスは、光の刺激以上に人間に与えるストレスとして注目すべきです。というのは、光は、目をとじるとかカーテンをするとかで、まだ遮断することは可能であるが、音は遮断できない。

聴機能は、あらゆる音刺激のなかから自分に都合よく音を識別するように発達したものです。だから、開放系であり、すべての音が感知されるようになっています。

かつて人間は自然の音や、人間の発する音でも再現性のない音のなかで育ってきました。ところが、今や幼児にもテレビの音やCD の音楽が聞かされます。

若者が山を歩いていてもウォークマンを開いています。異常なことです。このようにして、人間の能力や計算力や疲れやすさを凌駕するこれらの機械によって、生産力を上げようとする企業論理は、人間の生理にまったくおかまいなく、私たちの生活時間をスピード・アップさせました。
こうして、時間は、ストレスとして私たちの前に立ちあらわれたのです。

ストレスは学習されていく

私たちは普段の生活のなかでのストレッサーは、1つや2つではありません。時間のストレスという大枠のなかで多様にからみあって、私たちをつねに刺激しつづけています。そのなかで私たちは生まれ、成長し、働き、そして老いていくのです。この人生は、ストレッサーとのたたかいと調和の積みかさねでもあるのです。

子どものときに、どんなストレッサーと遭遇し、それをどう乗りこえたかということが、その子の体内に学習されたものとして残ります。

心理的には性格の根として、身体的には体質としてです。子どもは、日々ストレッサーとの遭遇によって、その体験学習によって自分を形成していきます。

同じようなストレッサーであっても、4歳の幼児期と10歳の学童期では異なります。たとえば、親に手をあげられる体験1つでもその感じ方が違うだけでなく、あと後に残す影響は大きく違います。

子ども時代は、将来大人になったときの「生きる力」をつくるので、子どもの発達段階にふさわしいストレッサーと出会い、それを乗りこえるという体験が大切なのです。

たとえ、とても悲しい体験であっても、大人に守られて乗りこえていくことで、その子は成長できるのす。現代は、むしろ子ども時代に大切なストレッサーと出会わないように配慮されすぎて、ストレスに弱い大人になるというケースも多いでしょう。

ストレッサーは、時間の余裕のあるところで、その人の体質や性格(子どもの場合は発達段階を加えて) に適切な程度であるのが一番理想です。

「適切な」とは、どの程度でしょうか?。むずかしいことですが、「少し努力すれば乗りこえられる程度」といえると思います。それが、適切でなく強烈でかつ持続的につづく、あるいは、まったく非生理的で悪影響を与えるだけというようなストレッサーの場合、健康障害になってしまいます。

仕事上での多くのストレスは、緊張や不安が基底的なストレスで、さらに最近の不景気による悲観的な状況もストレスを強めているでしょう。

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