子育ての問題が、今、いわばハウツウ的な方法論の問題として扱われることが多くなりました。しかし、方法論の前に、子どもの脳の発達(生きる力)の発達の法則性を、しっかりと認識しなければならないのです。
子どもの発達や、そのつまずきなどを見ていると、その歴史性、相互関連性、外的環境の内部への影響性など、弁証法そのものを学ぶ思いにかられます。
子どもの発達は、生活過程全体の関連のなかですすむ弁証法的過程としてとらえることができます。たとえば、算数の力をつけさせるためにそろばんを、音楽的才能の力をつけるためにピアノを、国際的力を身につけさせるために英会話をなど毎日、塾に行かせているとすると、それぞれの時間の学習の内容はともかく、毎日のように放課後ワンパターンに塾に通っているという日常生活のあり方が、条件反射的に子どもの精神に影響を与えているのです。
放課後の2時間、義務的に学校の勉強以外に拘束されているということは、子どもに1つの価値観をうえつけていくわけです。
もし逆に、その子どもにとって放課後がまったく自由で自らの好奇心によって納得するまで遊べる時間であるのなら、その子の大脳は、自らの行動をつくりだす体験をたっぷりと味わうでしょう。
かつそれは塾などの義務によって中断されることがないという自由によって、大脳の働きは無限大です。もちろん、「夕食だよ」と母親によって中断されることはあるのは当然です。しかし、そのときは、空腹感という別の欲求が待っていて、遊びを中断することは自然にできます。
これは、子どもの放課後のあり方という1つの例ですが、「子どもにとって塾がいいか悪いか」という議論は、決して、「子どもが好きで行っている」「それも子どものつきあい方」などという即物的な問題ではないのです。
放課後が拘束され、プログラムが与えられた時間であるか、なにもない自由な時間であるかが大きい問題なのです。
「塾は週何回までならいいか」とか「どんな塾ならいいか」などというレベルの議論もありうるが、もっと深いところで、子どもには、学校の授業以外は徹底して自由時間を与えるべきではないかという問題があるのです。
安全を保障された自由時間のなかで、子どもの脳は自主的に生きいきと成長するものだからです。また、たとえば、大人からたっぷりと安心感を与えられ、おおらかに見守られているとき、子どもの行動は伸びやかになります。大人が子どもに不安を与えるときは、子どもの行動は萎縮して、したがって行動を通じて学ぶということも制限されます。
安心感につつまれているときは、子どもは冒険をします。危険になったらすぐ安心感を与えてくれている大人のところに戻ればいいからです。こういう子は、自分の心の中に安心感が生まれます。
自分に対する信頼感が生まれ、少し不安なことでも挑戟してみることを経験します。そして、それらは自信となり、積極性となってあらわれます。
つまり、まわりから安心感を与えることが、子どもの心の中に安心、自信、確信などの心性をつくるのです。「もっと自信をもちなさい」「もっと積極的に行動しなさい」という言葉の指示は、子どもに真の自信も積極性も生み出すものではないのです。安心感がまわりに保障されている生活過程のなかで、内的な力が育っていくのです。このような子どもの心の発達の弁証法を、ていねいにしっかり観察し、理論化しなければならなないはずです。