心の発達の弁証法についてその2

子育ての問題が、今、いわばハウツウ的な方法論の問題として扱われることが多くなりました。しかし、方法論の前に、子どもの脳の発達(生きる力)の発達の法則性を、しっかりと認識しなければならないのです。

子どもの発達や、そのつまずきなどを見ていると、その歴史性、相互関連性、外的環境の内部への影響性など、弁証法そのものを学ぶ思いにかられます。

子どもの発達は、生活過程全体の関連のなかですすむ弁証法的過程としてとらえることができます。たとえば、算数の力をつけさせるためにそろばんを、音楽的才能の力をつけるためにピアノを、国際的力を身につけさせるために英会話をなど毎日、塾に行かせているとすると、それぞれの時間の学習の内容はともかく、毎日のように放課後ワンパターンに塾に通っているという日常生活のあり方が、条件反射的に子どもの精神に影響を与えているのです。
放課後の2時間、義務的に学校の勉強以外に拘束されているということは、子どもに1つの価値観をうえつけていくわけです。

もし逆に、その子どもにとって放課後がまったく自由で自らの好奇心によって納得するまで遊べる時間であるのなら、その子の大脳は、自らの行動をつくりだす体験をたっぷりと味わうでしょう。

かつそれは塾などの義務によって中断されることがないという自由によって、大脳の働きは無限大です。もちろん、「夕食だよ」と母親によって中断されることはあるのは当然です。しかし、そのときは、空腹感という別の欲求が待っていて、遊びを中断することは自然にできます。

これは、子どもの放課後のあり方という1つの例ですが、「子どもにとって塾がいいか悪いか」という議論は、決して、「子どもが好きで行っている」「それも子どものつきあい方」などという即物的な問題ではないのです。

放課後が拘束され、プログラムが与えられた時間であるか、なにもない自由な時間であるかが大きい問題なのです。
「塾は週何回までならいいか」とか「どんな塾ならいいか」などというレベルの議論もありうるが、もっと深いところで、子どもには、学校の授業以外は徹底して自由時間を与えるべきではないかという問題があるのです。

安全を保障された自由時間のなかで、子どもの脳は自主的に生きいきと成長するものだからです。また、たとえば、大人からたっぷりと安心感を与えられ、おおらかに見守られているとき、子どもの行動は伸びやかになります。大人が子どもに不安を与えるときは、子どもの行動は萎縮して、したがって行動を通じて学ぶということも制限されます。

安心感につつまれているときは、子どもは冒険をします。危険になったらすぐ安心感を与えてくれている大人のところに戻ればいいからです。こういう子は、自分の心の中に安心感が生まれます。
自分に対する信頼感が生まれ、少し不安なことでも挑戟してみることを経験します。そして、それらは自信となり、積極性となってあらわれます。

つまり、まわりから安心感を与えることが、子どもの心の中に安心、自信、確信などの心性をつくるのです。「もっと自信をもちなさい」「もっと積極的に行動しなさい」という言葉の指示は、子どもに真の自信も積極性も生み出すものではないのです。安心感がまわりに保障されている生活過程のなかで、内的な力が育っていくのです。このような子どもの心の発達の弁証法を、ていねいにしっかり観察し、理論化しなければならなないはずです。

心の発達の弁証法について

今、多くの人々が「子ども時代の危機」について盛んに論じています。それぞれの主張に、それぞれの真理がふくまれています。しかし、究極は、親の責任を責めるところにおちつくものが多いのです。

たとえ、社会の問題、教育の問題といっても、だから「親の姿勢が大事」という結論に行き着きます。親の役割、家庭の役割を強調するけれども、その趣旨は、大人が社会に向かって自立することを要求しているのです。

たとえば、残業を断わること、学校の先生に対しても自分の意見を述べること、そして、子どものために親と教師は手を結んでほしいのです。そして、なによりも、労働者として未来の労働者を育てるために労働組合に結集してほしいと、私は即訴えるのです。

現代は、子育ては、親だけで、あるいは学校だけでできるなんて時代ではないのです。かつて日本人が経験したことのない大変な時代なのです。

今、大人は、「子ども時代のルネッサンス」のために連携し、団結しなければならなりません。

親と教師・保育者はもちろん、労働運動、つまり、父母が働いている職場は当然であるが、マスコミや子ども向けの消費財をつくっている労働者たちも結集してほしいのです。

1つの例ですが、 30歳代前半のシステム・エンジニア。彼は、夜の帰りも遅いし、家に帰ってもパソコン・ゲームが気分転換。3歳の子どもがいるが、子育ては妻まかせ。子どもも、彼がパソコンをやっていると、のぞきこんできます。かわいいと思うけれど、どうしていいかわからなないのです。
もう少し大きくなったらパソコンを教えてやろうとは思っています。
妻には不満はありません。妻がどう思っているか? 妻は、時間もあるし、私も文句をいわないし、子どもと二人で満足していると思うけど。(そして今、子どもは5歳) 子どもは幼稚園にいっているが、集団のなかに入りたがりません。言葉は達者だけれど、人が群れているなかでは、大きい声が出ないのです。パソコンには興味がある。父親とゲームをしたがります。

彼の生活は変わっていません。子どもが内気なのは、妻が内気だからだろうと考えています。

この父母が問題だとだれも思うのが普通でしょう。そして、「もっと、子どもを愛しなさい」とアドバイスします。しかし、どう愛するのかわからないのです。

異なる指導が有効な場合もあります。「夜は、8時に寝かせなさい」と。この子は、夜11時ごろに寝ることが多かったのです。がんばって、午後8時。結局9時ごろになってしまうのですがそれでも、翌朝、子どもはご機嫌です。

このように、母親に、努力した成果をできるだけ早く経験させることが大事なのです。幼児の場合は1週間もあれば、「努力すれば子どもも変わりますね」という変化を見せることはできます。

ところが、思春期になると、1年かかってやっと変化がみえるということもあります。その間ずっと親を勇気づけ励まさねばなりません。

夜、8時に寝させるために、父親である彼の協力も得なければなりません。しかし、彼は、子どもと2人で過ごせないといいます。「私は、機械相手の方がいい」ともいいます。いずれにしても、家でのパソコンはやめてもらって、家庭の団欒に心がけてもらうように説得しているところです。ここで、子どもの心の発達を、総合的にみるための大切な3点です。

  1. 心の諸機能の相互関連をとらえる
    心の機能というと、思考、記憶、感情、意欲などと列記していくことができます。しかし、これらは、それぞれ他の機能とは違う本質をもっているのですが、決して独立して形成されているのではありません。だから、それぞれを説明するのに、他の機能と切りはなして記述することはできるが、実際に心を育てるという場面では、それぞれを別々に育てることはできないのです。

    つまり、「豊かな感情」だけを育てることはできないし、「すぐれた記憶」だけを育てることもできないのです。「豊かな感情」を育てるためには、子どもの記憶力も思考力も意欲も全部快くからみあって刺激しあって、活動することが愉快でたまらないような総合的な体験によって、やっと成功するのです。

    子どもの心の諸機能が相互関連的に作用するのが、子ども時代の体験です。体験の多様性が、子どもの性格の多様性の元です。活動することの快さを十分に味わえるような豊かな体験をした子は、可能性として遺伝された諸機能をバランスよく発達させることができるのです。

    虐待されたり、悲しい思いばかりして育った子は、諸機能の発達のバランスがよくないのです。人を信じない理由はいっばい考えることはできるが、人を信じる快さとか、「物事は悪いことばかりでない」などの見通しを信じることができないのです。

  2. 子どもの発達は、常に過去の土台の上に
    思春期は、かならず乳幼児期・児童期のあとにきます。決して、もう一度やりなおしはできません。

    子どもの心の構造(それを構成する諸機能を含む) はそれぞれの時期においてかならず過去の獲得物(それがプラスであっても、マイナスであっても)を土台にして形成されています。その構造形成の節目が、いわゆる児童期とか思春期のはじまりというものです。

    登校拒否の中学生などに「赤ちゃんがえり」といわれる現象をみることがあります。学校へ行かないことが容認されることをキッカケにして、幼児っぼい言葉づかいをし、母親の肌に触りたがったりする行動をいうのですが、その様子は、乳幼児期に甘えられなかったさみしさを今急いで取りかえそうとするかのようです。
    それは、当然、異常です。しかし、乳幼児期にしっかりと育てておかねばならなかった「バランスのとれた心の構造」というものの価値を、私たちに教えてくれているのです。子ども時代は、過去をやりなおすことはできません。だからこそ乳幼児期の子育てを重視しているのです。人間は、誕生のその瞬間からその子育てがはじまる。若い親たちに悔いのない子育てを教えたいのです。労働組合も、子育てや家庭の問題に取り組むべきだと思うのです。

  3. 環境に働きかけて育つ主体者としての子ども
    子どもの発達は、環境のなかで受動的ではありません。植物だって環境のなかで自分を変えつつ適応し、生きのびる。受動的なだけでは生きのびることはできません。

    人間の子ども時代も、能動的に生きるための方法を学ぶためにこそ存在するものです。そのような「能動的・自主的に生存する術を学ぶ時期」としての子ども時代が必要でなければ、人間の子ども時代は、かくも長く必要なかったのです。

    子どもは、発達する主体者であり、大人になったときに自立するための主体的な努力をするものです。私たち大人は、その努力する主体者を守る環境の一部であって、決して指導者ではないのです。

子ども時代のルネッサンスを

私たちは、子どもたちに自分のもっている発達の潜在的可能性を、全面的に総合的に開花させて、彼らの大人時代をすばらしいものにしてほしいと願っているわけですが、現代は、それどころか、大人として社会参加することにすら抵抗や問題をもつ若者が多く育っているのです。

このままだと、大人社会にさまざまな精神衛生上の問題を山積させていくでしょう。子ども時代を、変えねばならないのです。かつての子ども時代の健全なあり方を復活させねばならないのです。

私は、労働組合運動のなかでも、労働者の家庭を守る運動と同時に未来の大人の発達を守る「子ども時代のルネッサンスを」運動が必要だと思います。いくつかの要点は以下のとおりです。

子どもの生活リズムの完全な保障

子どもの学童期までは、子どもたちに、定時に眠り、定時に食事をするという生活リズムが保障されることが大切です。これは、社会文化と、社会制度の両面から守る必要があるでしょう。

たとえば、夕方~夜にかけての場合です。子どもが幼児である場合、その子が夜8時ごろには毎晩就床できるためには、家族あるいは協力できる大人が、午後5時半ごろには保育園に迎えにいかなければなりません。
この日、夕方から子どもといっしょに過ごす大人は残業を断わることが保障されなければなりません。子どもは、できれば夕食の前に入浴をすませて、午後7時前後に夕食。
そして、午後8時ごろ、家中の電気が消され、子守歌やお話などの就寝前の儀式があって、子どもは寝つくのです。この3時間ばかりの短い時間は、大人と子どもにとって静かな快い時間です。なぜなら、子どもは保育園でたっぷり遊んできたから。そして、大人は、その子どものおしゃべりを聞くのが、とても楽しいことで、3時間で十分のスキンシップができるのです。

こういう時間のなかで、子どもは、夜になると眠くなるという快い欲求を感じます。気持ちのいい夕食時間を通じて、子どもは家庭の雰囲気というものを学習します。しかもこれは、大人になって、自分の家庭をつくるときに役立ちます。

したがって、大人は、子どもの夕食と就寝時間を確保するために、労働時間の短縮を獲得しなければなりません。。

子ども社会のモノは、最小限に

私たち大人でもそうだといますが、モノが豊富にあると、節約しない、代替で用を足す工夫をしない、少しの時間でも待てないでイライラするものです。

子どもの脳が発達するプロセスでは、リッチであることを学習させる必要はないのです。自分の頭で環境に働きかけて工夫し、待ち、そして得るという作業過程を体験し、自ら獲得したときの喜びを学習させるのです。

かつて、子どもは貧しく大変でした。だから、頭を使い、そのぶん利口になり、応用が効き、また自分の力を試して、自分を信じる機会も体験したわけです。

そして、頭を使い、努力することが苦痛でない大人に育ったのです。では、今、子どもを貧しくすべきか。そうではなく、良質のモノ、必要なモノを最小限に与える文化をつくりだすべきなのです。

たとえば1ダースの鉛筆を与えるよりも、1本の鉛筆と小刀を与える方がいいだろう。腕時計は、デジタルではなくて、アナログの方がいいでしょう。雑記帳は、広告のウラ紙などを使って自分でつくらせるのがいいでしょう、

大人の消費文化をそのまま、子ども社会に持ちこまない文化づくりが必要です。

子どもの遊び相手を機械にさせない

テレビ、テレビゲームは機械です。決して疲れない。夜中でもつきあってくれます。そこには、人間関係のわずらわしさもないのですが、楽しさもありません。

しかし、このような機械は、子どもをひきつけるようにプログラムされています。つまり、消費刺激の論理がある。子どもには、人間関係の楽しさを体験しながら、またわずらわしさをも学習しなければなりません。また、別れのつらさ、会ったときのうれしさ、負けたときのくやしさ、なぐさめてもらったときの気持ちよさなど、いっぱい人間的感情を体験しなければなりません。

テレビでみるおもしろさは、自分を観客にしているので、単純です。テレビゲームも、成功か不成功かと単純な感情体験しかありません。
かつ、機械は、子どもに動物のように動き回ることを保障しません。
また、テレビは、二次元の画面をみるので視機能がきちんと安定するまで、見せてはいけません。

子どもの脳を育てるのは、人間と自然です。ぜいたくなくらいの自然を与えることが大切です。そして、良質の人間関係を与えよます。

機械は、机の上で学習することが自然になった小学校高学年ぐらいから最小限のカリキュラムで使っていいでしょう。こういうテーマも子どもを守る文化運動として展開されねばならないでしょう。

食生活は、家庭文化の基礎である

生活リズムのなかで、食事の位置づけが大切です。まず、子どもが食事を楽しむために、空腹感が十分に保障されねばなりません。
「おなかがすかない」というような不十分な活動、楽しくない人間関係、不規則なリズムでは、子どもの食欲は育ちません。十分な空腹感があってはじめて、子どもは食事を楽しむ。食事を楽しいと思うことが家庭団欒の基礎です。

家庭は、ただエサを食べさせるところではありません。大人になったときに、「私も、自分の子ども時代のときのような家庭をつくりたい」と思い出せるような家庭文化の継承こそ大切なのです。

今の大人は、自分たちの長時間・不規則・過密労働のもとで、自分たちが子ども時代に体験した食卓の文化を、自分の子どもたちに伝える機会を奪われています。
今、幼い子どもを育てている人は、案外家庭の食卓を中心とした文化を体験していない人も多いかもしれません。是非、幼い子どもたちといっしょに、食卓をつくる楽しさを経験し、子どもに継承できる家庭文化をつくりだしていただきたいのです。

虐待の禁止、無条件の愛を

人間だけでなく噛乳類の子どもは、みんなかわいらしく生まれます。愛されることを予定しているのです。幼い子は、当然大人のペースではなく、まさにヨチヨチと世の中にでてきたのです。
そういう弱い幼い子どもを憎く思い、虐待する親が多くなっています。その親たちも、子どもというものがわからず、子どもとつきあえない、かわいそうな人たちでもあります。
彼らも、子ども時代、虐待されたり、いじめられた体験をもつ人が多いのです。しかし、だからといって、親になってしまったが、自分の子どもに再び悲しい体験をさせることを見過ごしていいわけではありません。

子どもには、甘やかしではなく、本当の愛をいっぱい与えなければなりません。虐待は、だれであってもあってはいけまえせん。

校の体罰は禁止されています。当然これは守られねばなりません。子どもへの虐待を防止するためには、特別の援助体制が必要です。公的、私的、いろいろなレベルの親や子どもを守る援助のための組織が生まれる必要があるのです。。

なによりも子どもたちの自由な時間と空間を

かつての「子ども時代」のように、子どもたちは、大人から自由でなければなりません。とくに幼児期から児童期に、もっと自由でなければなりません。大人は、子どもの安全を守るために∵定の目配りは必要であるが、子どもが好奇心をもつ前に敢えてしまったり、安全な「冒険」、正答が出てくる「難問題」を用意してしまってはいけません。

どんなにお金があっても、子どもたちの自由時間を奪うために使ってはいけません。そして子どもたちが、自由に自らの体験のできる安全な空間(自動車を入れない道や街とか、舗装されない運動場とか)を、特別につくることも必要でしょう。こんなふうに考えると、町、づくりの大きな文化運動になるのではないでしょうか。