子ども時代のルネッサンスを

私たちは、子どもたちに自分のもっている発達の潜在的可能性を、全面的に総合的に開花させて、彼らの大人時代をすばらしいものにしてほしいと願っているわけですが、現代は、それどころか、大人として社会参加することにすら抵抗や問題をもつ若者が多く育っているのです。

このままだと、大人社会にさまざまな精神衛生上の問題を山積させていくでしょう。子ども時代を、変えねばならないのです。かつての子ども時代の健全なあり方を復活させねばならないのです。

私は、労働組合運動のなかでも、労働者の家庭を守る運動と同時に未来の大人の発達を守る「子ども時代のルネッサンスを」運動が必要だと思います。いくつかの要点は以下のとおりです。

子どもの生活リズムの完全な保障

子どもの学童期までは、子どもたちに、定時に眠り、定時に食事をするという生活リズムが保障されることが大切です。これは、社会文化と、社会制度の両面から守る必要があるでしょう。

たとえば、夕方~夜にかけての場合です。子どもが幼児である場合、その子が夜8時ごろには毎晩就床できるためには、家族あるいは協力できる大人が、午後5時半ごろには保育園に迎えにいかなければなりません。
この日、夕方から子どもといっしょに過ごす大人は残業を断わることが保障されなければなりません。子どもは、できれば夕食の前に入浴をすませて、午後7時前後に夕食。
そして、午後8時ごろ、家中の電気が消され、子守歌やお話などの就寝前の儀式があって、子どもは寝つくのです。この3時間ばかりの短い時間は、大人と子どもにとって静かな快い時間です。なぜなら、子どもは保育園でたっぷり遊んできたから。そして、大人は、その子どものおしゃべりを聞くのが、とても楽しいことで、3時間で十分のスキンシップができるのです。

こういう時間のなかで、子どもは、夜になると眠くなるという快い欲求を感じます。気持ちのいい夕食時間を通じて、子どもは家庭の雰囲気というものを学習します。しかもこれは、大人になって、自分の家庭をつくるときに役立ちます。

したがって、大人は、子どもの夕食と就寝時間を確保するために、労働時間の短縮を獲得しなければなりません。。

子ども社会のモノは、最小限に

私たち大人でもそうだといますが、モノが豊富にあると、節約しない、代替で用を足す工夫をしない、少しの時間でも待てないでイライラするものです。

子どもの脳が発達するプロセスでは、リッチであることを学習させる必要はないのです。自分の頭で環境に働きかけて工夫し、待ち、そして得るという作業過程を体験し、自ら獲得したときの喜びを学習させるのです。

かつて、子どもは貧しく大変でした。だから、頭を使い、そのぶん利口になり、応用が効き、また自分の力を試して、自分を信じる機会も体験したわけです。

そして、頭を使い、努力することが苦痛でない大人に育ったのです。では、今、子どもを貧しくすべきか。そうではなく、良質のモノ、必要なモノを最小限に与える文化をつくりだすべきなのです。

たとえば1ダースの鉛筆を与えるよりも、1本の鉛筆と小刀を与える方がいいだろう。腕時計は、デジタルではなくて、アナログの方がいいでしょう。雑記帳は、広告のウラ紙などを使って自分でつくらせるのがいいでしょう、

大人の消費文化をそのまま、子ども社会に持ちこまない文化づくりが必要です。

子どもの遊び相手を機械にさせない

テレビ、テレビゲームは機械です。決して疲れない。夜中でもつきあってくれます。そこには、人間関係のわずらわしさもないのですが、楽しさもありません。

しかし、このような機械は、子どもをひきつけるようにプログラムされています。つまり、消費刺激の論理がある。子どもには、人間関係の楽しさを体験しながら、またわずらわしさをも学習しなければなりません。また、別れのつらさ、会ったときのうれしさ、負けたときのくやしさ、なぐさめてもらったときの気持ちよさなど、いっぱい人間的感情を体験しなければなりません。

テレビでみるおもしろさは、自分を観客にしているので、単純です。テレビゲームも、成功か不成功かと単純な感情体験しかありません。
かつ、機械は、子どもに動物のように動き回ることを保障しません。
また、テレビは、二次元の画面をみるので視機能がきちんと安定するまで、見せてはいけません。

子どもの脳を育てるのは、人間と自然です。ぜいたくなくらいの自然を与えることが大切です。そして、良質の人間関係を与えよます。

機械は、机の上で学習することが自然になった小学校高学年ぐらいから最小限のカリキュラムで使っていいでしょう。こういうテーマも子どもを守る文化運動として展開されねばならないでしょう。

食生活は、家庭文化の基礎である

生活リズムのなかで、食事の位置づけが大切です。まず、子どもが食事を楽しむために、空腹感が十分に保障されねばなりません。
「おなかがすかない」というような不十分な活動、楽しくない人間関係、不規則なリズムでは、子どもの食欲は育ちません。十分な空腹感があってはじめて、子どもは食事を楽しむ。食事を楽しいと思うことが家庭団欒の基礎です。

家庭は、ただエサを食べさせるところではありません。大人になったときに、「私も、自分の子ども時代のときのような家庭をつくりたい」と思い出せるような家庭文化の継承こそ大切なのです。

今の大人は、自分たちの長時間・不規則・過密労働のもとで、自分たちが子ども時代に体験した食卓の文化を、自分の子どもたちに伝える機会を奪われています。
今、幼い子どもを育てている人は、案外家庭の食卓を中心とした文化を体験していない人も多いかもしれません。是非、幼い子どもたちといっしょに、食卓をつくる楽しさを経験し、子どもに継承できる家庭文化をつくりだしていただきたいのです。

虐待の禁止、無条件の愛を

人間だけでなく噛乳類の子どもは、みんなかわいらしく生まれます。愛されることを予定しているのです。幼い子は、当然大人のペースではなく、まさにヨチヨチと世の中にでてきたのです。
そういう弱い幼い子どもを憎く思い、虐待する親が多くなっています。その親たちも、子どもというものがわからず、子どもとつきあえない、かわいそうな人たちでもあります。
彼らも、子ども時代、虐待されたり、いじめられた体験をもつ人が多いのです。しかし、だからといって、親になってしまったが、自分の子どもに再び悲しい体験をさせることを見過ごしていいわけではありません。

子どもには、甘やかしではなく、本当の愛をいっぱい与えなければなりません。虐待は、だれであってもあってはいけまえせん。

校の体罰は禁止されています。当然これは守られねばなりません。子どもへの虐待を防止するためには、特別の援助体制が必要です。公的、私的、いろいろなレベルの親や子どもを守る援助のための組織が生まれる必要があるのです。。

なによりも子どもたちの自由な時間と空間を

かつての「子ども時代」のように、子どもたちは、大人から自由でなければなりません。とくに幼児期から児童期に、もっと自由でなければなりません。大人は、子どもの安全を守るために∵定の目配りは必要であるが、子どもが好奇心をもつ前に敢えてしまったり、安全な「冒険」、正答が出てくる「難問題」を用意してしまってはいけません。

どんなにお金があっても、子どもたちの自由時間を奪うために使ってはいけません。そして子どもたちが、自由に自らの体験のできる安全な空間(自動車を入れない道や街とか、舗装されない運動場とか)を、特別につくることも必要でしょう。こんなふうに考えると、町、づくりの大きな文化運動になるのではないでしょうか。

生きる力を育てるための子育て

子どもが大人になることについて、従来から1つの前提条件がありました。今、そういう前提条件を獲得していない若者が多く存在する現実に直面して、私たちはその前提条件を発見したともいえます。

子どもが大人になるために獲得していなければならない前提条件とは、なにかというと、それは「社会に参加できる」ということです。子どもは、大人になれば当然のこととして社会に参加する。そこで、ひとりひとりの頭のよさや才能や根性などの違いによって社会のなかでの生き方が変わってきます。

だれよりも、うちの子が、社会という大海原をカツコよく生きてほしい、あるいは楽しく生きてほしいなどの願いをこめて、親は、子どもの教育や才能開発に力を入れ、金を使います。
だれもが、子育てをはじめた頃は、「20年後、この子は社会に参加する」というイメージを前提にしている。自分が社会に出たように。

前にもふれましたが、大人は、多くの場合、自分の発達の時代を忘れて、突然大人になったように考えていますまた、自分の性格の特徴が子ども時代の発達のなかで形成されてきたという、そのプロセスを忘れてしまっています。

時々思い出話として「オレの親父は、きびしかったヨ。それがオレの根性の源だ!」とか「お母さんが、いつもボクをかばってくれた。あの無条件の愛は、ほんとうにうれしかった」などと断片的、一面的に思い出すが、それも時々です。

もちろん、あまり自分の過去にこだわりすぎると、むしろ自己否定的な感情を強めてしまうので、どんどん過去を忘れていくのは、それでいいことなのですが。

とにかく、大人は、自分がこうして大人として社会参加できるのは、自分の子ども時代の「社会参加の練習」の積みかさねがあってこそなのだということを忘れています。子どもをめぐる社会環境が、どの世代によってもほとんど変化しない時代は、それでよかった。もう何万年もの間、人間の子どもは、子ども社会で遊びほうけているうちに、無自覚的に社会参加の練習をして、あるとき、突然「大人になったよ」といわれて、大人としての社会に参加するという巣立ち方をしてきたのでしょう。

だから、大人は、自分の子ども時代の体験を忘れてもよかったのです。しかし、現代の子どもの育つ環境は、とくに日本やアメリカなどでは激変している。テレビ、テレビゲームなどの機械的視聴覚刺激、紙オムツヤクーラーなどの人工的環境、超早期教育、豊富な子ども用品、能力主義、消費文化など、大人の生活文明が、まったくチェックされずに子ども社会をおおってしまっています。

さらに生活リズムは崩れ、食生活は乱れ、神経疲労で、子どもの「ストレス抵抗力」は低下しています。こういう子ども社会の質的な変化がおこっているなかで、私たちは、汝ハの世代の大人たちを育てているのです。

だから、私たち自身、どのようにして大人になったか、どのようにして社会参加の力を身につけたか、思い出してみなければならないのです。

そして、今の子どもたちが、将来大人の年齢になったときに、生きいきと勇敢に社会に飛びだしていけるように、子ども時代のあり方も抜本的に変えなければなりません。

子ども時代のあるべき形を、私たちは復活させなければならないと思うのです。

私たちは、なにげなく社会に参加し、一応自立した生活をしてますが、それは才能でも特技でもなく、人間としてあたりまえの条件が満たされているからです。

  1. 群れのなかに安心していられること
  2. 感情のコントロールがしなやかであること
  3. 自律神経系がバランスよく安定していること
  4. などのことです。「会社に就職する」とか「大学でサークルに入る」とか「地域の青年団に入る」とか、大人的なつきあい方ができるためには、この3点ぐらいは当然大事だろうと、どなたも納得されるでしょう。さらに、この3点に、

  5. 自分を肯定的にとらえることができること

をつけくわえたいのです。4は、前述の3点が満足されていれば蛇足のようなものですが、自分の長所や短所を含め、自分というものを「これが私であって、これ以上でも、これ以下でもない。この自分でいいのだ。この自分が好きだ」と、肯定的にとらえられる気持ちになつていることが大事です。

この自己肯定感は、群れのなかにいても自分を安心してみていられる気持ちであり、感情を動揺させないで、したがって、ドキドキしたり不眠症になったりもしない自律神経の安定した状態で、社会参加できる自己感情として大事なのです。

大人として自立するための条件

今、大人になって社会に参加することに不安、恐怖を感じ、あるいは社会に参加する気力や興味がなく、家の中に引きこもり、自分をどう朋扱ったらいいのか、すっかり因っている若者が多いのです。これは、昔の若者たちの様子とは異なります。

「自分は、いかに生きるべきか」と悩んでいるのではありません。精神的な病によって社会を拒否するようになっているわけでもありません。

もちろん、精神病のケースもあるけれども、今、私たちの目の前にいて、私たちの心を悩ませているのは、明確に精神病と診断を想定できないのです、社会不参加のケースである。彼らは、プライドが高くて競争で負けることをきらい、他人の気持ちを敏感にばかり、空想のなかで多く夢を追い、しかし挫折を恐れて行動しない、そんな傾向が強いのです。

外の人の目を極端に意識して、人の前で恥をかきたくないという思いが強く、心にまったく余裕がなく、したがって精神疲労になりやすく、その反面家族に極端に甘えます。それは暴力的に表現されることもある。これらの若者は、「人格障害」とか「境界型人格」とか、あるいは俗っぽく「子ども大人」などといわれて、社会的問題になりつつあります。

どういう名称を与えようと、病気ではないから、病気に対する治療法というようなものが発明されるわけではありません。病気に治療や社会復帰や予防法という共通一般性のある法則を確立することがありうるわけでもないのです。性格とか人格とかいわれる事柄は、すぐれて子ども時代の育ち方の全過程の結果なのです。

大人になってからの性格とか人格の問題は、なにも「人格障害」の若者だけでなく、多くの大人たちの悩みの種です。たとえば、神経質な人は、自分の神経質な性格を直したいと願い、気の小さい性格の人は、気を大きくしたいと悩みます。

つまり、大人になってから、意識的に性格なり人格を変えようと思っても、それは無理なのです。自らを受容し、大人としての社会参加のなかで自分がゆっくりと変化していくのを待たねばならないのです。そして、あるとき、「自分は変わったな」と思うようなときが訪れるのです。

多くの自分の性格に悩み、自分を変えたいと願う大人たちは、このようにして成長していくのす。ところが、ここで述べたような青年たちは、「自らを受容し、大人としての社会参加のなかでゆっくりと自分が変わっていくのを待つ」なんてことができるのでしょうか。

彼らは、あの不登校の子のように社会不参加をきめこんでいますいや、学校の頃は、まだ「いやだ。あそこはいやだ」という拒否する意志もあったかもしれない。しかし、すでに大人になってみると、「いやだ」という前に「こわい」のではないだろう

だから、か。それは、やっぱり社会参加のためには、一定の力、つまり( 生きる力が子ども時代につくられていなければならないということではないでしょうか。

では、大人として社会参加するための、つまり自立のための( 生きる力) とはどんなものでしょうか、私が、多くの社会に参加することに臆病になっている多くの若者たちをみていて、考えたことです。

群れのなかに、安心していられること

集会や街の雑踏などの大勢の集まるところや親戚の集まりや職場などの自分が評価されやすいところで、普通は、多少の緊張や気づかいはあっても、「自分は自分なりに」自分を表現し、楽しみ、義務を果たすものです。しかし、これは、自分というものに対する信頼感、「私はここで自分でなくなってしまうようなことはない」という安心感に裏打ちされているのです。

社会不参加の若者たちは、「だれもボクのことをわかってくれない」とか「みんなはバカみたいに楽しそうだ。ボクだけ不幸だ」などと他人を悪くいうけれども、要するに自分が信じられないのです。他人の目ばかり気になって、自分づくりができかったのです。こういう気持ちでは、群れ(つまり社会である) のなかに自分をおけません。だから、私は( 生きる力)の第一に、「群れのなかでも安心していられること」をあげるのです。

感情のコントロールがしなやか

だれでも喜怒哀楽はあるし、この感情の感受性が生きいきしていないと、人生は豊かにはなりません。うつ病の人の感情の平板化した(悲しいレベルで)状態をみると、この喜怒哀楽の感受性の大切さはよくわかります。

しかし、それらの感情が人間としての理性を経ずにストレートに表出されると、その人の「行動はいわゆる感情的、ヒステリックと許されるような現象になります。

最近いわれる「キレる」というのも、理性を経ない感情の爆発的表出である。いろいろな社会関係のなかで、いろいろな感情体験をするわけですが、悲しみや怒りの感情は理性をくぐて沈静化され、表現の工夫がなされ、喜びや快い感情を高め、自己肯定感に結びつける努力がなされることによって、その人の感情がバランスよくコントロールされるのである。さまざまなストレスのなかにあっても、おだやかな気持ちの社会参加をするために、自らの感情のコントロールが、自らの心のなかでしっかりと行われなければなりません。自分を信頼できない人ほど、簡単に「キレる」のです。そして、自分を不幸だといって悲しみ、人生の喜びを見つけられないのです。

自律神経系がバランスよく安定していること

気持ちよく眠り、気持ちよく目覚め、空腹感があり、食事を楽しむことができ、身体に苦痛がなく、そして生体のリズムが自然のリズムに沿って、気持ちよく毎日が流れていく。その間に仕事がある。仕事はきつくても、夜の団らんと睡眠によって、翌朝にはサッパリとしている。

これが、健康な若者の生活リズムであり、それは自律神経系のリズムです。現代社会のストレスが、このような快い人生をだれにも保障しなくなってしまったのですが、今社会に参加するスタートラインの若者が、すでに自律神経系の不安定な状態では、この社会に生きていくのに支障があるのです。したがって、子ども時代にしっかりと丈夫な、バランスのとれた安定感のある自律神経系を育てなければならないわけです。