買い物依存症「Aさんの例」

30歳の専業主婦Aさんの例
子どもは、ひとりつ子の小学4年生の子がいる。Aさんは、日中は暇で、時間をもてあましています(消費文明は、家事すら機械化してしまったことによる)。

夫は、仕事人間。妻とゆっくり夜を過ごすことを考えられません。帰宅してもニュースやスポーツニュースを見るだけです。家庭文化をつくる努力がされていません。

たしかに、多くの家庭で、夜の団欒といえば、みんなでテレビをみることぐらいになってしまっています。
時々、夫婦ゲンカになる。とくに、Aさんの月経前でイライラしやすいときに、夫が酔って夜中に帰ってくるなどということになると、大ゲンカになります。

Aさんは、「私の寂しさはわかる? 」と訴えます。夫からみれば「こんなに楽をしていて、なんとぜいたくなことをいうのか」と反論。

ここには、2人で必死で生活をつくつていこうという生活感はありません。たしかに、2人にはローンを抱えているとはいえ、十分なお金はあるのです。
生きるために必死に力を合わせるという切迫感のない人工的なマンションのなかで、2人の心はよりそえないのでしょうか?

夫は、「オレが身を粉にして働いて、こんなぜいたくをさせている。何の文句があるのか!」と、経済的豊かさを強調します。イライイラしているAさんは、「あなたがその気なら、お金を使ってやる!」と宣言。

それから先は水かけ論になるのは当然です。

しかし、Aさんは、翌日おしゃれをしてデパートへ出かけ、怒りながら洋服売り場をみて歩いています。今日は、絶村に買うと決めているのです。

でも、ゆったりと楽しんでいるのではなく、何かにつかれたようです。そして、30万円ぐらいの買い物をして、Aさんは、やっとスッと肩の力がぬける思いがするのです。

30万円といっても、現金が出たわけではありません。Aさんも、金額を考えないわけではないのです。しかし、月々2万円程度払っていけばいいんだから、なんとかなるはず。「毎日、こんなことをするわけではない。今日は、夫にみせしめなんだ」と自分に納得させて、買ってしまったのです。

家に帰って、鏡の前で、Aさんは満足でした。このときの1回だけであれば、依存症とはいえないわけですが、Aさんは、その後、心の中が満たされない感じで、イライラすると、また出かけたくなってしまいます。

「今日は、ウインドウショッピングだけ」と、出かけるときは誓うのですが、気にいったものがあると、いつの間にか買ってしまっている自分を発見するのです。

Aさんも、出かける前は「見るだけ」と決心するし、後で後悔することも多いのですが、それでも、売り場につくと何かを探しているのです。

夫は、Aさんの行動からはまったく気づいていませんでした。前よりAさんの不機嫌が長くなくなったなという程度にしか理解していませんでした。

しかし、あるとき、カードの支払通知書をたまたま見ておどろきました。「これでは生活費がなくなる」と、驚いてA さんを問い詰めたところ、買い物をいっぱいしていることがわかったのです。

押入れや洋服ダンスは、まだ着ていないスーツや小物、日用雑貨などがあふれるくらいに入っていたのです。Aさんは、まだサラ金を利用していなかっただけよい方ともいえます。

とはいえ、これから500万円ぐらいは払っていかねばならない現実が待っています。Aさんは、今は、心から反省しているのですが、しかし、満ち足りていないのです。

そしてむなしい気持ちはやはり消えていません。夫も、妾の訴えを、ただ反論するだけでは解決しない深いものだと知って、家庭での時間を大切にしようと努力していますが、本当のところは、まだAさんとはしっくりいかないのです。

このAさんのケースなどは、現代社会の消費文明の究極の姿のよです。

Aさん夫婦には、共有する家庭文化がないのです。A さんは、時間がありすぎ、夫は、時間がなさすぎるのです。Aさんの夫のような男性は決して少なくないのです。
Aさんのように「買い物依存症」になる人は多くはないにしても、パチンコなどのギャンブルに凝っているいる女性や、時間が余るから気分転換にパートに出ているなどという人もけっこういるようです。

現代社会は依存を生み出しやすい

「依存」とは「自立」の反対語と考えることができます。時間のストレスが支配し、学歴を中心とする競争原理が、子どもの幼い時期の生活までもおおっている現代社会は、1つには、子ども時代に培われるべき自立する力が十分に育てられていないというケースを多く生みだしています。

こで述べる自立のための条件(精神的、性的、生活的、経済的) について、今の若者の多くがいかに不十分であるかは、よくわかると思います。

こういう自立の不十分さが、容易に依存行動をひき起こしていくきっかけになります。2つには、まさに大人になつて自立的に生きるべき年代に、ゆったりと文化的な時間を享受する時間がなく、あわただしく時間に追われて、自分の心理的・生理的心地よさを大切にすることができなくなっていることです。
こういう余裕のない状態のときに、安易なレクリエーションとして、飲酒、喫煙などの依存が生まれやすいのです。

3つ目には、現在は、モノがあふれています。ふつう、その豊かな物質文明のなかで餓死するなどとは想像できません。どうにかなるだろうと思います。
親か妻かがなんとかしてくれるだろうと思います。こういう生への必死な思いの必要ない環境のなかでこそ、依存が生まれるのです。

たとえば、アルコール依存症で1週間も食事をしないで朝からアルコールが切れないという人がいます。
家人が注意すると「オレの身体は、オレの勝手だ」「死んでもいいんだ」といって暴れて、酒を要求します。飢えてはいないが、アルコール漬けになって食事もできなくなり、脱水状態になって、結局病院にかつぎ込まれます。

どうしてここまで自制ができなくなるのでしょうか。1つにはアルコールの薬理作用という面もありますが、それだけではなく、生活態度も依存的になっているのです。

つまり、自分は酒を飲むと際限がないので、酒は飲んではいけないのだと自制、自己コントロールができないのです。まさに、この生活態度の自己抑制力の低下が、依存症という病態の特徴です。

つまり、自立の反対です。このような病態は、生きるか死ぬか必死にならなければならない物質的に貧しい時代には存在しなかったものです。

なにしろ酔いつぶれていては、自分の命を防衛することはできませんし、なによりも、現代のように余るほどモノはなかったのですから。

現代のように物質的な飽和状態では、あらゆるものが依存の村象になってしまいます。アルコールはもちろんのこと、シンナーとかある種の風邪薬、抗不安剤、覚醒剤などの薬物類。さらにパチンコとか買い物、ストーカー、アダルトビデオ、テレビゲーム、家庭内暴力なども、依存的な心理状態と関連しています。

依存症といえば、アルコール依存症が連想されるくらいに、アルコールという薬物は、現代的依存にぴったりの薬物ですが、このアルコール依存症に象徴される依存行動、依存的生活態度などという一つの生き方は、現代社会にもっと広くありうるのです。

依存するものは、さまざまです。消費物質があふれ、コマーシャルなどで乱費・乱用することを奨励する雰囲気がつくられて、かつ手ごろな価格で手に入るもの、あるいは、身近にあって支配しやすいものであればいいのです。

依存から自立した依存

現代日本は、ストレス社会であると同時に「依存」社会とも言える社会です。

「依存」というのは、独立していない頼りきっている状態といえます。人間の赤ん坊は、誕生したときはまったく大人に依存しています。生きることのすべてを大人にまかせています。

この生理的心理的依存が完全に保障されている子は、内発的に自立する力がついてきます。

親と子の関係は、親が子どもを完全に依存させていた状態から、徐々に依存の度を薄めながら、いずれ子どもが大人になる頃には、独立した個人として対等になるというプロセスです。
子どもが大人になったとき依存しなくなるためには、いくつかの条件が必要である。

  1. 精神的自立(自分の心を管理できること。孤独感とか、後悔とか、くやしさとかのマイナス感情にもある程度耐えられねばならない。自分の欲求や願望も冷静にコントロールできねばならない)
  2. 的自立(性的機能が健康に発達し、性的認識が倒錯していないことも大切である)
  3. 生活的自立(夜は眠り、食事をつくったり、あとかたづけしたり、楽しむことができる。疲れを、自らの生活の仕方で改善することができる)
  4. 経済的自立(自分の生活費は、自分の労働で得ることができる)

これらの条件は、かつての多くの若者にとって自然にのりこえられた課題でした。

たとえば、中学を卒業して集団就職で都市で働くようになった人たちは、親に依存していた子ども時代から、一夜にして自立することを迫られました。と同時に、親に依存した生活のなかで、そのような発達可能性は、ちゃんと培われていたのです。

だから、彼らは、工場で働く数年の間にすばらしく成長して大人らしく変身していったのです。そして、「がんばれば、何事も成しとげられる」というような人生観をしっかりと身につけることができたのです。しかし、かならずしも、がんばればなんとかなるものでないこともあるので、かつてすばらしく自立した彼らも、不測の環境の変化のなかで、自立できなくなってしまうもろさを露出する場合もあります。

ともかく、ここでいえることは、子ども時代、親に十分依存しているなかで、いずれ大人として自立する力が育っていくというです。

大人になってからも、親と子が助けあったり、夫婦が力を合わせて子どもを育てるとかの関係を通じて、多少依存的な関係があることは仕方ないが、そのような家族関係のなかでもできるだけお互いに自立しているという形が望ましいのです。

神経科外来でみる家庭内葛藤は、自立できない依存的な人物が家人を精神的負担や不安定感をつくつているというケースが多いのです。