現代社会は依存を生み出しやすい

「依存」とは「自立」の反対語と考えることができます。時間のストレスが支配し、学歴を中心とする競争原理が、子どもの幼い時期の生活までもおおっている現代社会は、1つには、子ども時代に培われるべき自立する力が十分に育てられていないというケースを多く生みだしています。

こで述べる自立のための条件(精神的、性的、生活的、経済的) について、今の若者の多くがいかに不十分であるかは、よくわかると思います。

こういう自立の不十分さが、容易に依存行動をひき起こしていくきっかけになります。2つには、まさに大人になつて自立的に生きるべき年代に、ゆったりと文化的な時間を享受する時間がなく、あわただしく時間に追われて、自分の心理的・生理的心地よさを大切にすることができなくなっていることです。
こういう余裕のない状態のときに、安易なレクリエーションとして、飲酒、喫煙などの依存が生まれやすいのです。

3つ目には、現在は、モノがあふれています。ふつう、その豊かな物質文明のなかで餓死するなどとは想像できません。どうにかなるだろうと思います。
親か妻かがなんとかしてくれるだろうと思います。こういう生への必死な思いの必要ない環境のなかでこそ、依存が生まれるのです。

たとえば、アルコール依存症で1週間も食事をしないで朝からアルコールが切れないという人がいます。
家人が注意すると「オレの身体は、オレの勝手だ」「死んでもいいんだ」といって暴れて、酒を要求します。飢えてはいないが、アルコール漬けになって食事もできなくなり、脱水状態になって、結局病院にかつぎ込まれます。

どうしてここまで自制ができなくなるのでしょうか。1つにはアルコールの薬理作用という面もありますが、それだけではなく、生活態度も依存的になっているのです。

つまり、自分は酒を飲むと際限がないので、酒は飲んではいけないのだと自制、自己コントロールができないのです。まさに、この生活態度の自己抑制力の低下が、依存症という病態の特徴です。

つまり、自立の反対です。このような病態は、生きるか死ぬか必死にならなければならない物質的に貧しい時代には存在しなかったものです。

なにしろ酔いつぶれていては、自分の命を防衛することはできませんし、なによりも、現代のように余るほどモノはなかったのですから。

現代のように物質的な飽和状態では、あらゆるものが依存の村象になってしまいます。アルコールはもちろんのこと、シンナーとかある種の風邪薬、抗不安剤、覚醒剤などの薬物類。さらにパチンコとか買い物、ストーカー、アダルトビデオ、テレビゲーム、家庭内暴力なども、依存的な心理状態と関連しています。

依存症といえば、アルコール依存症が連想されるくらいに、アルコールという薬物は、現代的依存にぴったりの薬物ですが、このアルコール依存症に象徴される依存行動、依存的生活態度などという一つの生き方は、現代社会にもっと広くありうるのです。

依存するものは、さまざまです。消費物質があふれ、コマーシャルなどで乱費・乱用することを奨励する雰囲気がつくられて、かつ手ごろな価格で手に入るもの、あるいは、身近にあって支配しやすいものであればいいのです。

依存から自立した依存

現代日本は、ストレス社会であると同時に「依存」社会とも言える社会です。

「依存」というのは、独立していない頼りきっている状態といえます。人間の赤ん坊は、誕生したときはまったく大人に依存しています。生きることのすべてを大人にまかせています。

この生理的心理的依存が完全に保障されている子は、内発的に自立する力がついてきます。

親と子の関係は、親が子どもを完全に依存させていた状態から、徐々に依存の度を薄めながら、いずれ子どもが大人になる頃には、独立した個人として対等になるというプロセスです。
子どもが大人になったとき依存しなくなるためには、いくつかの条件が必要である。

  1. 精神的自立(自分の心を管理できること。孤独感とか、後悔とか、くやしさとかのマイナス感情にもある程度耐えられねばならない。自分の欲求や願望も冷静にコントロールできねばならない)
  2. 的自立(性的機能が健康に発達し、性的認識が倒錯していないことも大切である)
  3. 生活的自立(夜は眠り、食事をつくったり、あとかたづけしたり、楽しむことができる。疲れを、自らの生活の仕方で改善することができる)
  4. 経済的自立(自分の生活費は、自分の労働で得ることができる)

これらの条件は、かつての多くの若者にとって自然にのりこえられた課題でした。

たとえば、中学を卒業して集団就職で都市で働くようになった人たちは、親に依存していた子ども時代から、一夜にして自立することを迫られました。と同時に、親に依存した生活のなかで、そのような発達可能性は、ちゃんと培われていたのです。

だから、彼らは、工場で働く数年の間にすばらしく成長して大人らしく変身していったのです。そして、「がんばれば、何事も成しとげられる」というような人生観をしっかりと身につけることができたのです。しかし、かならずしも、がんばればなんとかなるものでないこともあるので、かつてすばらしく自立した彼らも、不測の環境の変化のなかで、自立できなくなってしまうもろさを露出する場合もあります。

ともかく、ここでいえることは、子ども時代、親に十分依存しているなかで、いずれ大人として自立する力が育っていくというです。

大人になってからも、親と子が助けあったり、夫婦が力を合わせて子どもを育てるとかの関係を通じて、多少依存的な関係があることは仕方ないが、そのような家族関係のなかでもできるだけお互いに自立しているという形が望ましいのです。

神経科外来でみる家庭内葛藤は、自立できない依存的な人物が家人を精神的負担や不安定感をつくつているというケースが多いのです。

過労性疾患に共通する3つの問題

ケースCの場合は、最近話題になっている大企業の過労死などとは異なり、街の工場や店で日常的に見聞きする過労のケースでした。

ここで、ひとりの病人をみた場合に、「このケースには過労の問題はからんでいない」か考えてみる視点をもつことが重要です。もちろん、から、検査なども大事であるが、検査ばかり重ねて、重篤な疾患がかくれていることもある病人をますます病人にしてもいけないし、検査で異常がないと、本人は具合が悪いのに「異常がない」と開きなおるしかないのも困るのです。
そこで、患者さんの生活をつぶさに聞いてみる必要があります。そして、つぎの3つをチェックします。

  1. 持続するストレスのなかでたえまなく交感神経緊張状態がつづいている
    この場合、ストレスの構造は複雑です。時間のストレスをまず基底的なストレスとして考えねなければなりません。たとえば、「いついつまでにやりとげる」などというのは、そのとき作業をしていなくても、頭脳のなかでは十分にストレスであり、交感神経緊張を強めています。また「これは、いつまで。あちらはいつまで」という並行的な課題は、いっそう交感神経緊張を高めます。そういう時間のストレスを基底にして、仕事の質や段取りや人間関係などが複雑に交感神経を興奮させています。こういうストレスと交感神経緊張の度合いと、その結果としての過労の可能性をしっかりと観察する必要があります
  2. 極端に睡眠時間が足りない
    1にも関連しますが、圧倒的に睡眠時間が足りないケースです。「人間は8時間も眠らなくてもいいのだ」とか、睡眠軽視論は多いけれども、経験的にいって、8時間程度寝床の中にいるということは大事です。「8時間の睡眠が必要だ」といって、やむをえず6時間しか眠れないことがあっても仕方ないでしょう。また、ぐっすり寝ることはなくても、8時間のゆっくりとした休息は、十分に意味があります。
    とくに、1のように交感神経緊張の時間が長いことが多い場合、その疲れをとり(副交感神経緊張に移行して)、活力を回復するためには、十分な睡眠が必要です。過労性疾患におちいる人はたいがいこの睡眠を軽視しています。
  3. 体を使っていない
    Cさんのように身体を動かす仕事の場合もあるが、AさんやBさんは、極端に身体を使っていません。これは、人類史上もきわめて不自然です。現在のように肉体労働と精神労働が分裂している現状は、やむをえないとするならば、AさんもBさんも、もっとスポーツをやるべきです。肉体の疲労と神経の疲労のバランスがとれ、そしてそのお互いに疲れを癒しあうような生活をしなければならないのです。ところが、睡眠時間すら保障されない労働者には、神経の気づかれをいやすようなダイナミックに汗をかき、快い疲労を感じるような身体運動の時間も、そして場所もないのです。
    現代のストレスは、超過密・長時間労働を頂点とする「時間のストレス」が、労働者の生理・心理に多大の影響を与え、家庭生活や私生活がこわされ、そして「過労死」などをふくむ過労性疾患を生み、全国民的な健康障害のもとになっています。いわゆる成人病や子どもの精神不安や落ち着かなさも、現代的ストレスを抜きに考えられないのです。このような現代的なストレスの問題を背景にふまえながら、日本人の健康の問題をさらに考えなければなりません。