人間にとってのストレス

常識語ともなった「ストレス」は、人間にとって、どんな意味あいをもっているのでしょううか。とりあえず、不快な症状の原因にまず「ストレス」が大きな原因としてあげられるようになりました。

ストレッサーを回避できない

まず第一に、セリエのストレスに関する理論は、ラットという動物に対して一方的にすとレッサーを与え、その結果としての身体的変化を観察することによって導きだされました。

ネズミはストレッサーを回避もできないし、またたたかうこともできない条件です。
ラットは抵抗できず、受身的に自分の身体への侵襲をうけいれざるをえないのです。実験上、単純であり理論化しやすかったと思われるが、どうもこのラットのおかげで、ストレスというと、仕方ないもの、降参するか逃げるか仕方ないものという印象を、人間の場合にも引きずっているのではないかと思えます。

ストレスを逆に成長のバネにする

第二に、私たちの日常生活から発想できることでありますが、人間の場合は、ストレスのあり方もさらに対処の仕方ももっと複雑です。それどころか、人間は、ストレスを上手につかって自らを成長させているのです。

ラットの場合は、そのストレスは臓器の変化として観察されたけれども、人間の場合はそれ以外の感情表現で観察されることの方が多いでしょう。その感情表現は多様である。だから、人間の場合は、セリエが警告反応期、抵抗期、 疲憊期というようなパターンでは説明できないことの方が多いのです。
もし、人間でセリエの理論上の図式が実証されるとしたら、それは相当感情表現を抑制して、肉体的にも拘束した環境のなかでしかありえないのではないでしょうか。

自分の感情表現を抑制し、自らを従順に振るまうよう抑圧しているような場合の人に、胃・十二指腸潰瘍や高血圧などの「心身症」が多いのは事実であり、人間は、ストレスを感じると、まず感情表現をします。
そして、他人に同情、共感を求め、また助けを得たいと思う。また、最悪の場合は逃げだしてしまいます。

こういう多様な行動によって、ストレスに対応できるのが人間であるから、必然的に、ストレスの問題は、生理学的な研究をこえて社会心理学的な研究に似つかわしくなってしまうのです。

とはいっても、社会心理学的にきわめて複雑な人間行動を引きおこす人間のストレスではあるが、この間題を社会心理学だけで説明してしまおうとすることは間違いです。

人間の行動 は、社会心理学的であるが、その行動する生身の人間の健康は、ひとりひとり、生理学的変化のなかにあるのです。

たとえば、あるシステム・エンジニアのチームに、自分たちの責任あるシステムでトラブルが発生した。そのときにリーダーを中心にメンバーがそれぞれの分担をし、それぞれの役割を補いながら、集中し、あるときはどなりあい、あるときはやさしく激励しあって数日の作業を終えます。こんなときのグループ・ダイナミクスは社会心理学的に興味のあるところだし、「どうこのストレスを乗りこえたか」とそれぞれが述べあうこともおもしろいかもしれません。

ところが、私は、ちがった視点からみてぬなsy。「彼らは、何時間眠らなかったか。彼らには、どのようなプレッシャーがかかっていたのか。援助体制はあったか。彼らひとりひとりの体質は同じでないけれども、それは配慮されたか?などということをみます。
これは、一人ひとりの労働者の健康をみつめる視点です。だから、人間のストレスを考えるとき、その社会心理学的な面からと、ひとりひとりの生理学的面からの両面からの統一的アプローチが必要なのです。

人間はストレスを避けない

第三に、人間は、ストレスを避けないし、むしろ好むという傾向があるということも、セリエの理論だけで説明できないことです。
エベレストに登る登山家は、「なぜ、そんな苦労して山に登るのか」と聞かれて、「そこに山があるから」と答えたという話は有名ですが、スポーツや探検、冒険など、人間は、おおいなるストレスを求めて行動しています。
そして、長年の克己、避けがたい危険、私生活の面のさまざまな犠牲をはらって、一瞬の達成感のために、人間はがんばるのです。

このがんばりの積みかさねが、人類の発展史を満たしているのだと、理解しています。ストレスと過労人間は、ストレスというものを避けなかった。むしろストレスを乗りこえることに快感を感じることなのです。自ら、目標をつくり(大学受験、資格の取得、出世・昇進、記録の達成など)、目的達成のために必要な課題をこなし、「不眠・不休で」「死んだ気になって」がんばるわけです。

目標の達成をめざしてがんばっているときは、まさに大きなストレス下にあるわけですが、苦労を苦労と感じないし、むしろ精神的には生きいきとすらしているのです。

そして、実際に目標が達成されれば、精神的な満足感で、ストレスによる疲れもふっとんでしまうという体験をするのです。
人間は、ストレスをたんに受身に受けとるのではなく、むしろそれにチャレンジして、より高いレベルに成長するというとらえ方をしてきたのです。

ストレスという言葉は、もちろん使われず、課題とか挑戦とか闘争とか呼んできたのです。ストレスを苦痛、いやなものとして実感することが多くなったのは、やはり現代の資本主義的産業社会になってからです。

この産業社会にあっては、人々には地域社会や身分にしばりつけることなく、たくさんの可能性とチャンスが生まれたけれども、成功しないで生活を破綻させてしまうという危険性をもあわせもっています。
だから、人々は人一倍がんばらねばならないのです。しかし、かつてのように「がんばれば、いままでよりはよくなる」とかならずしもいえません。
つまり、ストレスを挑戦的に乗りこえようとしても、その結果、かならずしも達成感や充足感が体験できるとは限らなくなっているのです。

このようにストレスが、乗りこえて成果をうる課題でなくなったとき、そのストレスは抑圧となり苦痛となります。人間にとってストレスは、決して苦痛なことばかりとはいえず、むしろそれを乗りこえることによって個人も成長し、時代も発展するという積極的な一面ももつものでした。

ところが現代の産業社会の究極ともいうべき超過密・長時間労働の日本においては、ストレスは、セリエの動物実験のレベルではないけれども、セリエのいうような生体侵襲的に人間に作用しているのではないかと、考えさせられます。

たとえば、アメリカで社会心理学的に提唱され、現代のストレスについて問題を投げかけた「バーンアウト(もえつき) 症候群」なども、セリエの「警告反応期」「抵抗期」「 疲憊期」の三段階の説が、人間に適応できると考えられます。

いずれにせよ、セリエ学説は、現代の科学を先がける思潮の1つでした。人間というきわめて複雑な生命存在の多くが「もえつき」「過労死」「家庭崩壊」などの形で、つぶされていくのを見るとき、もっと深く広く検討されねばならないものになっているのでしょう?

ストレスとは

「ストレスだなぁ!」「ストレスで辛い」という言葉は、現代社会にはふさわしい言葉といえます。江戸時代の人々にもストレスがなかったわけではないだろうけれども、もっと時間がゆったりとしていました。

現代のように、ものごとが時間どおり正確に行われなければならなくなってから、人間は「ストレス」を感じるようになってしまいました。

ハンス・セリエがストレス学説を打ちだしたのは1940年代後半ですが、世界中が近代科学の発展とともに、あらゆる生活場面で自動機械化、スピードアップ、大量生産が帽をきかせるようになり、自然のリズムとともに生活するなんてことが困難な、人工的な環境につつまれるようになりました。

セリエのストレス学説は、私たちのこの新しい世界の生活様式におけるひずみを説明するのに、格好のものとなりました。それと同時に、「ストレス」というと、なにか不快な、困ったものという印象も強く、人々は敬遠できればそうしたいと願うようなものと思っているようです。

本当は、ストレスにはストレスの効用とでもいってよい素晴らしい役割があるのですが、「ストレス」という言葉についてまわるこのマイナス・イメージはセリエの学説そのものからきているのかもしれないと思われます。

セリエのストレス学説

20世紀前半は、まさに生物学、医学の新しい発見、新しい概念の誕生のめざましい時期でした。セリエも新しい発見をすべく生化学教室で性ホルモンの研究に熱中していました。
ところが、彼が発見したのは、新しいホルモンなどの物質ではありませんでした。ラットの身体に与えられるさまざまな刺激(非特異的な因子) によって、1つの同じような変化がおこるという現象でした。
つまり、薬理作用のちがう薬物や、寒さや過度の運動など、その刺激はまちまちであっても、結果としてはラットの身体に共通する変化をひき起こすことを発見したのです。

もちろん、このような事実は、昔から知られていたことではありますが、実証的研究が定着しつつあったこの科学の時代になって、セリエが動物実験によって実証したことに意味がありました。
そして、そのような刺激をうけたときの生体の変化を、物理学の用語をつかって「ストレス」と命名したところに、時代にフィットするところがあったのです

ストレスというのは、もともとは、物理学の分野で、外力に村する物質のゆがみという意味でした。

たとえば、ゴムボールを指で押したとする。強くおせば、ボールは凹み、形はゆがむ。強く強く押すとボールはゆがんで変化する。指でなく棒で押せばボールは結局耐えられずにやぶれてしまいます。つまりボールでなくなるります。これがストレスであり、指や棒をストレッサーといいます。

セリエは、これを生物学に応用したのです。そして、セリエのいうとおり、動物(セリエのときはラットであったが) に対するストレッサーは、薬物などでない、恐怖、不安、痛みなどの体験(人間でいえば感情体験である) でもよいという事実から、このストレス学説は、医学、生理学の枠をこえて、心理学、社会学へと広がり、そして今や一般の常識語とすらなったのである。
なったのです。