日本の家庭の危機

日本人の家庭の危機が深刻でケースによっては崩壊しているといわれるようになって、かなりの時間が経過してしまいました。その大きな原因は、日本の勤労者の多くが長時間・過密労働にかりだされ、家庭に不在の時間が長くなっていることです。

しかも、家庭にテレビや各種の電気機器が入って家族がいっしょに行動することがほとんどなくなってしまったことも影響しています。

家庭というものは、それを推持し、その文化をつくつていくためには、家庭を構成する家族の相応の努力が必要です。いっしょに食事をする、いっしょに休日を過ごす、他の家族を気づかって行動を規制するなどの努力が必要です。「努力が必要である」といっても、それは、会社や社会団体などで、気をつかう努力とはまったく違うものになります。

家庭は子育てを中心とした肉親の自然的な関係です。ここでいう努力は、親が子どもに、子育ての仕方、家庭のつくり方を体験的に継承するための努力です。
他の社会的関係のような打算やかけひきなどはまったくない関係のなかでの必然的努力です。

子どもを生むということは、子どもを育てるということを意味します。人間の場合は、遺伝子によって子育ての方法が決められているのではなく、家庭という継続的な人間関係を通して学習して、いつの間にか、あたかも遺伝されたかのように正しく子どもを抱いたり、食事を与えたりする行動様式を身につけるのです。

子どもが生まれると、親はだれしも子どもをかわいく思い、抱きあげ、ほおづけをして、同じような声かけをします。それは、動物としての本性に根づいていることも確かですが、人間の親としての行動の多くの部分は自分の子ども時代に家庭のなかで、いわば「刷り込まれ」たものの集合体です。

近年多くの「子どもが好きになれない」と訴える若い母親と会うのだが、彼女たちの生い立ちに共通しているのが、彼女たち自身「しっかりと愛された体験」が十分ではなかったことです。
「しっかりと愛される」というのは、小さいときにぜいたくな生活をしたとか、何回家族旅行に連れていったとかの思い出によってはかられるものではありません。

愛しあう家族がいっしょにたっぷりと同じ時間を過ごすあたたかい家庭生活という体験が必要なのです。それは、どの程度愛されればいいのかとか、どの程度の時間があればいいのかと、数量化したりできるものでもありません。

長い期間にわたって胎盤の中にいるようにしっかりと守られ、かつ社会的といわれるほどにやさしく対応されるということです。思い出として残る出来事よりも、感情のレベルで残る家庭の雰囲気のようなものです。このような体験記憶が子どもに対して「愛らしいと思う」「かわいくなってしまう」という親の心になるのです。

若い男性の中にも、自分の子どもに全く興味を示せない人がいます。そうかと思うと、本当に上手に子どもをかわいがる人もいます。
よく聞いてみると、子ども時代の家庭の雰囲気や生活条件がまるで違うのです。その育児力を育てる家庭が、現代的な消費文明のなかで維持するのがむずかしく、したがって子どもが勝手に大きくなっているのです。

将来の生きる力(自分の子どもを育てる「育児力」もそのなかに入るだろう) を育てる基本的な基盤から放りだされているのです。親子の会話がきわめて貧しいものとなり、生活リズムが軽視され、家庭の約束事がなくなり、テレビや習い事によって、子どもは育つように錯覚されています。

子どもの生理的快感、情緒的安定、納得や達成感の快い興奮などが、家族のなかで共有されることの発達上の役割なども看過されています。その結果、身体は大人になったけれども、大人として子どもを育てるにはあまりに幼い若者が、「子どもを愛せない」という悲しい訴えをするに至ったのです。

家庭について

家庭という概念でくくれる親子を中心とした親族の集団づくりは、人類だけです。ほ乳動物の間には類似の形式を見つけることができるかもしれない(たとえば兄弟がいっしょに行動するとか) のですが、人間のように、親が死んでも、その家庭文化を継承するなどという精神的な継続性をもった肉親の単位というのは、人類にしかないといってよいでしょう。

では、いつ家庭というものが発生したのでしょうか。
多分、人間の子どもに生まれて間もなく(猿のように) 親の身体にしがみついたり、乳首を自分から探し出して吸いつくというような生得的(生まれつきの)な反射がなくなってしまったころ、人間の子どもは、まったく完全に親の意図的な保護を必要とするようになったわけですが、そのときに、今の子育ての原形が生まれたのでしょう。

きっと、生まれた子どもを、私の子だよといって抱きかかえ、暖かい包衣(けだものの皮だったかもしれない) でくるみ、自分の乳首を子どもの口元にもっていってやらねばならなかったのだと思います。
そのころは、彼らは、草原をウロウロと歩きまわるのではなく、子どもを少なくとも1年は育てるぐらいの定住地をもっていたにちがいありません。

このように、家庭は、人間特有の子育てのあり方と密接な関係のなかで発生したのです。人間の赤ん坊は、誕生したときは、まったく生きるための能力をもっていません。

自ら保温する。0歳時代は、外界の空気を吸い、個性的な親に抱かれるという点では、母体内の胎盤とは違うけれども、基本的には、胎盤の延長です。
その意味では、社会的胎盤ともいってよいかもしれません。胎盤とはいえ、母体内のそれとは違い、自分のアクションを通じて、親とのほほえみ反応や人見知り、はいはいからひとり立ちまで、その脳神経回路の発達はめざましいものがあります。

まさに母体内では、同じ月日をかけても獲得できるものではないでしょう。同時に、この1年間、大人の対応と保護がいつも適切でなければならないということも忘れてはいけません。このような0歳時代の発達を完全に保障し、さらに、乳児期の子育てを完全に行う場として、人間には、家庭が必要なのです。

家族、親族など血縁のつながりを確認するだけでなく、人間の子どもをしっかり大人まで育てるところとして、家庭というものが必要だったのです。その意味から、現代の「家庭崩壊」といわれるような現象は、人間の将来にとってきわめて危機的な問題です。

未来の大人を決定するのは子供時代

子ども時代は、大人になるための大切な準備期間です。大人になってはじめて、自分の人生に責任をもつのですが、自分に責任をもてるようにしっかりと生きる力を身につけて大人になれるかどうかは、その子の責任ではなく、その子を育てている大人の責任です。

今、労働運動のなかでも、子育ての問題が重視されねばならないと考えています。労働者が自分のために労働条件や生活条件をよくする運動をすることは、まず大切ですが、今は、それだけにとどまらず、自分たちの後継者を健康に育てるという課題も重視しなければなりません。

たとえば、親の働く権利を守るためといって、子どもが健康に発達するための生活リズムを無視した生活が行われています。子どもの生活リズムを無視することが、どんなに子どもの将来に悪影響を与えるか、労働者自身が気づいていないというのが現状です。

労働者が労働組合などを通じて、自らの後継者をいかに健康に育てるかを勉強しなければなりません。そして、子どもたちの健康の発達のための、健康な生活条件をつくりだすためにたたかわなければならないのです。これからの労働者の運動は、子育てをも内に含んだ総合的な生活改善(物暦只的な豊富さではない) の運動でなければならないと思います。労働運動のなかで、子育てをどう位置づけるか、そのポイントとすべき課題です。

夜は、いつも決まった時間に寝る

大人が夜になると眠くなるのは、すべての基本である子ども時代に、決まった時間に床に就き、眠ったことによる条件反射の結果です。
子どもの就床時間は、小学毒生で午後8時、中学毒生で午後10時です。夜の家庭は静かで、おだやかな安心感に満ちた環境でなければなりません。忙しい仕事の人は、夕食などは合理化して、子どもと気持ちよく接する精神状態をつくるよう努力しなければなりません。

子どもを安心感でつつむこと

子どもは、大人がゆったりと見守るなかで心から安心感を感じているとき、伸びのびと行動して(生きる力を身につけるのです。不安・緊張・恐怖のなかでは、子どもは決して健全に成長できません。
大人は、子どもにいつも安心感を与えられるように自らの生活条件をよくしていかなければなりません。大人自身、よく眠り、気持ちのいい人間関係をつくるように自らも努力しなければいけませんし、そういうことが可能な生活条件を獲得するよう運動しなければなりません。

子どもには自由な時間をたっぷりと

安心感の保障されているところで、子どもは自由でなければなりません。口うるさく自由をうばわれるのも、規制ずくめで行動を規制するのも、子どもの( 生きる力)の発達阻害因子鵬である。

子どもの遊びは、広い広場で自由でなければなりません。ゲームセンターやテーマパークは、思い出はつくるが、脳を発達させるものではないのです。

モノや金は最小限に

子どもは自らの成長する実感を感じるとき、なんのごほうびもいらないのです。自らの成長感に共感してくれる大人がいればいいのです。

むしろ、子どもにモノをふんだんに買い与えたり、多額のお小遣いをあげたり、子どもの意欲をひき出すためといってごほうびをやったりする習慣はよくありません。子どもにお金をかける必要はありません。大切なのは、モノや金よりも安心感と自由とそして眠りです。

子どもの将来の問題に関心をもつ

子どもが将来生きる地球、日本の環境、子どもの食生活、生活リズム、物質的刺激の多さなど、子どもの生きる環境は、かつての子ども時代のように牧歌的ではありません。私たちは、自分の子どもの学校の成績や就職などに神経質になるのではなく、子どもたち全体の健康な発達を保障する条件について関心をもち、子どもの未来をよくする運動に参加していかなければなりません。