乳幼児の慢性的な寝不足
現在の乳幼児の就床時間は、異常に遅くなっています。21以降に就床する乳幼児は4割をこえています。しかも、就床時間が毎晩一定していないため、少子どもは、夜「眠くなる」という本能的欲求を学習できません。
私たち大人の「夜、眠くなる」という欲求は生来的なものと誤解されているが、これは、子ども時代に、毎晩同じ時間に電灯が消され、まわりが静かになって、目を閉じて、お母さんの子守唄をきいているうちに気持ちよく眠ってしまうという繰りかえしの体験を通じて条件反射的に学習したものです。
ところが、今、子どもの就寝時間を定めるという家庭のリズムが忘れられています。大人の都合で家庭生活が夜型になり、子どもも明るい夜の生活のなかで覚醒刺激を受けつづけているのです。
彼らは「眠くならない」。疲れきって、いつのまにか寝込んでしまうとしても、それは、身体のリズムとして.定着しない。こういう子は、夜は遅くまで起きていることができるのです。
怒られて布団に入ったりすることはあっても、自然には眠れません。そして必然的に、朝、自然覚醒できません。もし、自然覚醒を待ったら、午前10時とか正午になってしまいます。
驚くべきことは、保育園や幼稚園に行っていない子の母親も、同じように、午前10時頃まで寝ているという家もあるほどです。また、子どもが朝寝してくれた方が、家事がはかどって助かると、喜んでいる母親さえいるほどです。
いずれにせよ、乳幼児期の、このような夜型の生活習慣は、子どもの日中の体調に影響を与えてしまいます。そして、小学校に入学して、朝決まった時間に登校しなければならなくなって、その体調のひずみは顕在化します
つまり、朝、しっかりと覚醒しないまま登校する。頭はボーッとしていて、注意力は散漫になります。身体もけだるい。まわりの子どもたちのすばやい動きについていけません。
ささいなことでムカッと怒り、乱暴をしたりする行動が目立ちます。教師のいっせいに呼びかけるやり方についていけません。高校1年生で、その子の目をみて、きちんと話しても、よく理解できないくらいですから当然です。
近年、小学校低学年の「荒れ」が問題になっていますが、この乳幼児期からの慢性的寝不足と生活リズムの未確立に、根本的な原因があると考えられます。
ひとつの例ですが、小学1年生のO君。鬼ごっこをしていて、自分が鬼になりそうになったら、急にルールを変えます。みんなが「おかしいよ」というと、怒りだして「死んでやる」といって、で教室にもどってしまいます。みんなが教室に入ってくると、ベランダから柵を乗りこえて外に出てしまいます。先生が二人がかりで、なかに引き入れたそうです。
授業がはじまっても、ゴロゴロ転がっている。注意をすると、ノートや教科書をどリビリと破ってしまいます。答え合わせをしていて間違えていたら、鉛筆をボキボキに折ってしまいます。
朝、クラスに入るなり、ある男子の顔をなぐってしまいます。わけを聞くと「朝、お母さんになぐられた。どうしてなぐられたのかわからない。イライラして、教室で殴った」とと話すのです。
こういう暴力は多いのです。この子の母親は、「私も八つ当たりでなぐることがある。この子には手を焼いている。おだてていい気分にさせておくと、よくやってくれる」というのです。
この子の生活は、安定していないのです。まず母親が、生活リズムを意識していません。さらに子どもに接する接し方も気分的です。
おだてたり、母親自身気に入らないと暴力をふるったりしているのです。O君の母親のように子育てについての最低の思想を身につけていない母親が多くなっているからでしょう。
自分の赤ん坊ができるまで、赤ん坊に触れたこともなかったという母親も多い時代です。今、あらためて親 になるための体験教育が必要なのだと思います。
そのなかで、人間も動物であり、同時に子育て期間の特別に長い動物であることや、子育てを自分の人生の喜びだと思える感性と知性などを、十分にと教えなければならないのです。そして、睡眠、摂食、性などの本能といわれるものも、長い子ども時代に、人間的に学習していくものであることも、理論的に理解させることが大切なのです。
評価ばかりが気になって自分に確信がもてない
子どもは、自分のさまざまな体験を通じて自分の可能性を身につけ、自分で行動することの喜びを見つけ、自分意識というものを確立すします。
そして、他人の評価ではなく、自分で、「この自分でいいのだ」と納得します。自己を欠点も含めて、肯定します。このような過程を経て、つまりアイデンティティというものを確立し、大人として生きていけるのです。
ところが、今、他人の評価ばかりを気にして、自分を肯定的に評価することのできない若者が増えています。そのなかには、「自分はみにくい」とか「自分はオナラをして、人にみられている」など、対人接触の障害になる病的な場合もあるが、このような病的な症状はなくても、社会参加へのステップをうまく踏みだせないで、悩む人が多いのです。
Mさんは、ある有名私立高校の3年生。しかし、本人には、第一心望校ではありませんでした。。第一志望校は、インフルエンザのために受験できなかっただけであって、失敗したわけではありません。
一年生、二年生のときには、成績は学年でトップでした。三年にすすみ、大学受験のことを考えるようになって、「私は、何のために勉強してきたのだろう」と考えるようになりました。「私には、成績しかなかった。あなたはできるといわれて、がんばれば成績はとれたので、がんばった。だけど、何のためだったの?私は、どんな勉強をしたのだろう?私には、わからない」などと考えこむようになり、4月から休みが多くなり、5月になったら、まったく不登校状態になってしまったのです。
昼夜逆転し、夜はテレビをみたり、手紙を書いたりしています。日曜日の夜などは、「明日からは行こう。だけれども、一番になれないし、大学に行ってもわからないし」などと落ち込んでしまうのです。
Mさんは、とてもまじめな性格、友だちとの関係も大事にしており、中学時代の友だちには、何でも打ち明けていまする。完全主義的なところがあり、他人からの評価を気にしてがんばってしまうタイプでした。
Mさんのように、他人からの高い評価を目標にする傾向が身についてしまうと、他人から低く評価されることをおそれて、自分の思考視野を狭くしてしまうわけです。
もっと迷ったり悩んだりして、自分で自分の生き方を選んでよかったのに、そのようなことを思いつかず、他人の評価というレールの上を走ってしまうのです。
現在の学校の偏差値による競争原理の下で、頭のいい子ほど、この他人の評価を目標にした競争に巻きこまれやすいのです。結局、Mさんは、カウンセラーのところに通い、気持ちの整理をし、また親も、「自分の人生は、自分で決めさせる」という割りきり方ができて、落ち着いてきました。
そして、6月には、通信制に切りかえ、そのサポート校に通うようにしたのです。まさに、「この道を走るように」強制されていた道をはずれて、少し時間は余計にかかるけれども、自分の足で確かめ、歩きはじめたのです。親は、もう見守ることしかすることはないのです。
生きることが喜びにならない子どもたち
人間の子どもも、他の動物の子どもと同じように、大人と自然の環境のなかで育てられます。けっして動物の子どもは機械によって育てられることはないのです。
ところが、現代は、子どものまわりにテレビ、テレビゲームなどの視聴覚刺激、自動車やエレベーターなどの移動機関、電灯や冷暖房などの人工的生活空間がとり巻いています。これら、大人にとっては楽しい・便利な機械文明は、子どもを育てる機能を本来もっていません。
あらゆる機械は、それを使いこなすことによって自分の労働を軽減したり、自分の力の足りないところを補ったり、さらに自分の欲求を一時満足させるために利用されるものでする。だから、機械は使用する人に大きな利益をもたらすわけです。つまり、努力しないで多くの仕事ができてしまうのです、努力しないで楽しむことができるなどのメリットがあります。
ところが、逆に、今、大人になるために「努力して筋肉をつけねばならない」とか「努力して勉強しなければならない」段階の者にとっては、それらのメリットは逆作用になってしまいます。つまり、努力する必要はないのです。子どもは、大人になるために多くの努力をしなければならない時期なのです。だから、努力してたくさんの喜びを得るような体験をしなければならないのです。
このような体験を与えることのできるのは、機械ではなく、人間の大人と自然なのです。小さいときから、テレビなどの視聴覚刺激を多く与えられて、人間同士の接触の少なかった子は、生きていることの感覚的な喜びを感じることができません。人間同士の接触に敏感になったり、こわがったりします。
また、機械のように便利なもので遊ぶことに慣れてしまった子は、わずらわしいルールや人と人が配慮しあうなどのことを面倒くさく、簡単にイラついてしまうのです。
テレビ局は、いったい誰のために深夜放送をするのでしょうか。少なくとも子どもの発達を保障する文化というものを考えるならば、テレビの深夜放送はやめるべきです。
テレビゲームというものも、子どもの健全な頭脳の発達にはまったく益はないし、ものを考えないためにのみ役立つのです。ちなみに、テレビゲームを操作するときに使われる神経回路は、動物的な反射回路のみであって、人間的な大脳皮質の回路は必要としていないという事実を、大人たちもしっかり自覚するべきでしょう。
結論としていえることは、現在のように機械文明のなかで子ども時代を体験する子どもたちは、周りの大人たちがよほど利口でないと、機械の特質に支配されて、人間としての能力を育てられないまま、大人になってしまうおそれは十分にあるということです。