子どもの虐待が問題になる理由

最近、「子ども虐待」という言葉がクローズアップされている。日本のような家族主義の強いところでは少ないのではないかともいわれていましたが、家庭の「子育て機能」が低下している現在は、急速に増えていると考えられます。

日本には、古くから体罰を容認する風潮があったので、子どもへの暴力、つまり虐待はまれではなかったと思われますが、現在のように家庭がバラバラにこわれてしまうまでは、たとえば父親による暴力を母親や他の家族が癒すということもあって、そのような体罰の体験も、家庭生活の一部の体験にすぎなかったのでしょう。

そういう体罰経験者のなかに、子どもへの体罰を肯定する人が多いのは、自らがうけた心理的なキズがそれほど大きくないからではないでしょうか?

ところが、現在問題になっている「子ども虐待」は、狭いアパートなどの1室、つまり逃げ場のない密室的な環境のなかで行われており、その意味では子どもの心に与える影響は非常に大きいのです。

「子ども虐待」の類型化

「子ども虐待」は、いくつかに類型化されています、全国の児童相談所に通知した新たな見解です。これらの類型が別々に存在することはまれなのです。

基本的に家庭のなかで愛をつくる努力のないところで、身体的虐待があったりするのである。基本的な問題は、その形はどうであれ、虐待をうけた子どもは、人格形成の最初期の段階にあって、その心理的な傷がきわめて大きいことです。

子どもは、大きくなって、「小さいときに、ぶたれた」とか「こわい思いをした」とかの断片的な記憶しか残らないにしても、このときの、おびえて、大人の顔色をうかがうとか、親を激怒させてしまうようなことばかりしてしまう自信のなさとか、他の人の感情を素直に受け入れられないとか、人間関係のあり方は(あとでたっぷりと愛されるという癒しがなければ) しっかりと性格の核として根づいていくのです。

子どもへの虐待に象徴される家庭内の虐待は複雑です。一応、類型化はできても、ただ子どもに対する対応だけでは済まされません。
もちろん、虐待された子どもが、大人になったときの結果を考えると、現在の世の中にある子ども虐待から子どもを救う対策も緊急を要することでです。
と同時に、すでに親になってしまって、自ら不幸の悪循環のなかから抜け出せない若い親たちに対するサポートも重要です。彼ら、彼女らは共通して子ども時代に十分に愛される体験をしていないのです。

だから、愛し方も愛され方も下手なのです。自分を好きでなく、自立がむずかしく、何かに依存したがります。彼らが、あたたかく保護され、自立する喜びを発見できるような職場とか人間関係の支えが必要なのである。そして、根本的には、家庭の子育て機能の復権ともいうべき取り組みが必要なのです。

まず、労働時間の短縮、深夜労働や深夜営業の制限、家庭でゆっくりすごす文化運動、子どもの全面的発達を保障する自然のなかの遊びや労働の保障などが、総合的に取り組まれる必要です。そして、子ども時代に愛されなかったなどという子どもが1人でも少なくなるように、社会全体が取り組まねばならいのです。

日本の家庭の危機

日本人の家庭の危機が深刻でケースによっては崩壊しているといわれるようになって、かなりの時間が経過してしまいました。その大きな原因は、日本の勤労者の多くが長時間・過密労働にかりだされ、家庭に不在の時間が長くなっていることです。

しかも、家庭にテレビや各種の電気機器が入って家族がいっしょに行動することがほとんどなくなってしまったことも影響しています。

家庭というものは、それを推持し、その文化をつくつていくためには、家庭を構成する家族の相応の努力が必要です。いっしょに食事をする、いっしょに休日を過ごす、他の家族を気づかって行動を規制するなどの努力が必要です。「努力が必要である」といっても、それは、会社や社会団体などで、気をつかう努力とはまったく違うものになります。

家庭は子育てを中心とした肉親の自然的な関係です。ここでいう努力は、親が子どもに、子育ての仕方、家庭のつくり方を体験的に継承するための努力です。
他の社会的関係のような打算やかけひきなどはまったくない関係のなかでの必然的努力です。

子どもを生むということは、子どもを育てるということを意味します。人間の場合は、遺伝子によって子育ての方法が決められているのではなく、家庭という継続的な人間関係を通して学習して、いつの間にか、あたかも遺伝されたかのように正しく子どもを抱いたり、食事を与えたりする行動様式を身につけるのです。

子どもが生まれると、親はだれしも子どもをかわいく思い、抱きあげ、ほおづけをして、同じような声かけをします。それは、動物としての本性に根づいていることも確かですが、人間の親としての行動の多くの部分は自分の子ども時代に家庭のなかで、いわば「刷り込まれ」たものの集合体です。

近年多くの「子どもが好きになれない」と訴える若い母親と会うのだが、彼女たちの生い立ちに共通しているのが、彼女たち自身「しっかりと愛された体験」が十分ではなかったことです。
「しっかりと愛される」というのは、小さいときにぜいたくな生活をしたとか、何回家族旅行に連れていったとかの思い出によってはかられるものではありません。

愛しあう家族がいっしょにたっぷりと同じ時間を過ごすあたたかい家庭生活という体験が必要なのです。それは、どの程度愛されればいいのかとか、どの程度の時間があればいいのかと、数量化したりできるものでもありません。

長い期間にわたって胎盤の中にいるようにしっかりと守られ、かつ社会的といわれるほどにやさしく対応されるということです。思い出として残る出来事よりも、感情のレベルで残る家庭の雰囲気のようなものです。このような体験記憶が子どもに対して「愛らしいと思う」「かわいくなってしまう」という親の心になるのです。

若い男性の中にも、自分の子どもに全く興味を示せない人がいます。そうかと思うと、本当に上手に子どもをかわいがる人もいます。
よく聞いてみると、子ども時代の家庭の雰囲気や生活条件がまるで違うのです。その育児力を育てる家庭が、現代的な消費文明のなかで維持するのがむずかしく、したがって子どもが勝手に大きくなっているのです。

将来の生きる力(自分の子どもを育てる「育児力」もそのなかに入るだろう) を育てる基本的な基盤から放りだされているのです。親子の会話がきわめて貧しいものとなり、生活リズムが軽視され、家庭の約束事がなくなり、テレビや習い事によって、子どもは育つように錯覚されています。

子どもの生理的快感、情緒的安定、納得や達成感の快い興奮などが、家族のなかで共有されることの発達上の役割なども看過されています。その結果、身体は大人になったけれども、大人として子どもを育てるにはあまりに幼い若者が、「子どもを愛せない」という悲しい訴えをするに至ったのです。

家庭について

家庭という概念でくくれる親子を中心とした親族の集団づくりは、人類だけです。ほ乳動物の間には類似の形式を見つけることができるかもしれない(たとえば兄弟がいっしょに行動するとか) のですが、人間のように、親が死んでも、その家庭文化を継承するなどという精神的な継続性をもった肉親の単位というのは、人類にしかないといってよいでしょう。

では、いつ家庭というものが発生したのでしょうか。
多分、人間の子どもに生まれて間もなく(猿のように) 親の身体にしがみついたり、乳首を自分から探し出して吸いつくというような生得的(生まれつきの)な反射がなくなってしまったころ、人間の子どもは、まったく完全に親の意図的な保護を必要とするようになったわけですが、そのときに、今の子育ての原形が生まれたのでしょう。

きっと、生まれた子どもを、私の子だよといって抱きかかえ、暖かい包衣(けだものの皮だったかもしれない) でくるみ、自分の乳首を子どもの口元にもっていってやらねばならなかったのだと思います。
そのころは、彼らは、草原をウロウロと歩きまわるのではなく、子どもを少なくとも1年は育てるぐらいの定住地をもっていたにちがいありません。

このように、家庭は、人間特有の子育てのあり方と密接な関係のなかで発生したのです。人間の赤ん坊は、誕生したときは、まったく生きるための能力をもっていません。

自ら保温する。0歳時代は、外界の空気を吸い、個性的な親に抱かれるという点では、母体内の胎盤とは違うけれども、基本的には、胎盤の延長です。
その意味では、社会的胎盤ともいってよいかもしれません。胎盤とはいえ、母体内のそれとは違い、自分のアクションを通じて、親とのほほえみ反応や人見知り、はいはいからひとり立ちまで、その脳神経回路の発達はめざましいものがあります。

まさに母体内では、同じ月日をかけても獲得できるものではないでしょう。同時に、この1年間、大人の対応と保護がいつも適切でなければならないということも忘れてはいけません。このような0歳時代の発達を完全に保障し、さらに、乳児期の子育てを完全に行う場として、人間には、家庭が必要なのです。

家族、親族など血縁のつながりを確認するだけでなく、人間の子どもをしっかり大人まで育てるところとして、家庭というものが必要だったのです。その意味から、現代の「家庭崩壊」といわれるような現象は、人間の将来にとってきわめて危機的な問題です。