家庭について

家庭という概念でくくれる親子を中心とした親族の集団づくりは、人類だけです。ほ乳動物の間には類似の形式を見つけることができるかもしれない(たとえば兄弟がいっしょに行動するとか) のですが、人間のように、親が死んでも、その家庭文化を継承するなどという精神的な継続性をもった肉親の単位というのは、人類にしかないといってよいでしょう。

では、いつ家庭というものが発生したのでしょうか。
多分、人間の子どもに生まれて間もなく(猿のように) 親の身体にしがみついたり、乳首を自分から探し出して吸いつくというような生得的(生まれつきの)な反射がなくなってしまったころ、人間の子どもは、まったく完全に親の意図的な保護を必要とするようになったわけですが、そのときに、今の子育ての原形が生まれたのでしょう。

きっと、生まれた子どもを、私の子だよといって抱きかかえ、暖かい包衣(けだものの皮だったかもしれない) でくるみ、自分の乳首を子どもの口元にもっていってやらねばならなかったのだと思います。
そのころは、彼らは、草原をウロウロと歩きまわるのではなく、子どもを少なくとも1年は育てるぐらいの定住地をもっていたにちがいありません。

このように、家庭は、人間特有の子育てのあり方と密接な関係のなかで発生したのです。人間の赤ん坊は、誕生したときは、まったく生きるための能力をもっていません。

自ら保温する。0歳時代は、外界の空気を吸い、個性的な親に抱かれるという点では、母体内の胎盤とは違うけれども、基本的には、胎盤の延長です。
その意味では、社会的胎盤ともいってよいかもしれません。胎盤とはいえ、母体内のそれとは違い、自分のアクションを通じて、親とのほほえみ反応や人見知り、はいはいからひとり立ちまで、その脳神経回路の発達はめざましいものがあります。

まさに母体内では、同じ月日をかけても獲得できるものではないでしょう。同時に、この1年間、大人の対応と保護がいつも適切でなければならないということも忘れてはいけません。このような0歳時代の発達を完全に保障し、さらに、乳児期の子育てを完全に行う場として、人間には、家庭が必要なのです。

家族、親族など血縁のつながりを確認するだけでなく、人間の子どもをしっかり大人まで育てるところとして、家庭というものが必要だったのです。その意味から、現代の「家庭崩壊」といわれるような現象は、人間の将来にとってきわめて危機的な問題です。

未来の大人を決定するのは子供時代

子ども時代は、大人になるための大切な準備期間です。大人になってはじめて、自分の人生に責任をもつのですが、自分に責任をもてるようにしっかりと生きる力を身につけて大人になれるかどうかは、その子の責任ではなく、その子を育てている大人の責任です。

今、労働運動のなかでも、子育ての問題が重視されねばならないと考えています。労働者が自分のために労働条件や生活条件をよくする運動をすることは、まず大切ですが、今は、それだけにとどまらず、自分たちの後継者を健康に育てるという課題も重視しなければなりません。

たとえば、親の働く権利を守るためといって、子どもが健康に発達するための生活リズムを無視した生活が行われています。子どもの生活リズムを無視することが、どんなに子どもの将来に悪影響を与えるか、労働者自身が気づいていないというのが現状です。

労働者が労働組合などを通じて、自らの後継者をいかに健康に育てるかを勉強しなければなりません。そして、子どもたちの健康の発達のための、健康な生活条件をつくりだすためにたたかわなければならないのです。これからの労働者の運動は、子育てをも内に含んだ総合的な生活改善(物暦只的な豊富さではない) の運動でなければならないと思います。労働運動のなかで、子育てをどう位置づけるか、そのポイントとすべき課題です。

夜は、いつも決まった時間に寝る

大人が夜になると眠くなるのは、すべての基本である子ども時代に、決まった時間に床に就き、眠ったことによる条件反射の結果です。
子どもの就床時間は、小学毒生で午後8時、中学毒生で午後10時です。夜の家庭は静かで、おだやかな安心感に満ちた環境でなければなりません。忙しい仕事の人は、夕食などは合理化して、子どもと気持ちよく接する精神状態をつくるよう努力しなければなりません。

子どもを安心感でつつむこと

子どもは、大人がゆったりと見守るなかで心から安心感を感じているとき、伸びのびと行動して(生きる力を身につけるのです。不安・緊張・恐怖のなかでは、子どもは決して健全に成長できません。
大人は、子どもにいつも安心感を与えられるように自らの生活条件をよくしていかなければなりません。大人自身、よく眠り、気持ちのいい人間関係をつくるように自らも努力しなければいけませんし、そういうことが可能な生活条件を獲得するよう運動しなければなりません。

子どもには自由な時間をたっぷりと

安心感の保障されているところで、子どもは自由でなければなりません。口うるさく自由をうばわれるのも、規制ずくめで行動を規制するのも、子どもの( 生きる力)の発達阻害因子鵬である。

子どもの遊びは、広い広場で自由でなければなりません。ゲームセンターやテーマパークは、思い出はつくるが、脳を発達させるものではないのです。

モノや金は最小限に

子どもは自らの成長する実感を感じるとき、なんのごほうびもいらないのです。自らの成長感に共感してくれる大人がいればいいのです。

むしろ、子どもにモノをふんだんに買い与えたり、多額のお小遣いをあげたり、子どもの意欲をひき出すためといってごほうびをやったりする習慣はよくありません。子どもにお金をかける必要はありません。大切なのは、モノや金よりも安心感と自由とそして眠りです。

子どもの将来の問題に関心をもつ

子どもが将来生きる地球、日本の環境、子どもの食生活、生活リズム、物質的刺激の多さなど、子どもの生きる環境は、かつての子ども時代のように牧歌的ではありません。私たちは、自分の子どもの学校の成績や就職などに神経質になるのではなく、子どもたち全体の健康な発達を保障する条件について関心をもち、子どもの未来をよくする運動に参加していかなければなりません。

現代の子供たちの大変な現状

乳幼児の慢性的な寝不足

現在の乳幼児の就床時間は、異常に遅くなっています。21以降に就床する乳幼児は4割をこえています。しかも、就床時間が毎晩一定していないため、少子どもは、夜「眠くなる」という本能的欲求を学習できません。

私たち大人の「夜、眠くなる」という欲求は生来的なものと誤解されているが、これは、子ども時代に、毎晩同じ時間に電灯が消され、まわりが静かになって、目を閉じて、お母さんの子守唄をきいているうちに気持ちよく眠ってしまうという繰りかえしの体験を通じて条件反射的に学習したものです。

ところが、今、子どもの就寝時間を定めるという家庭のリズムが忘れられています。大人の都合で家庭生活が夜型になり、子どもも明るい夜の生活のなかで覚醒刺激を受けつづけているのです。

彼らは「眠くならない」。疲れきって、いつのまにか寝込んでしまうとしても、それは、身体のリズムとして.定着しない。こういう子は、夜は遅くまで起きていることができるのです。
怒られて布団に入ったりすることはあっても、自然には眠れません。そして必然的に、朝、自然覚醒できません。もし、自然覚醒を待ったら、午前10時とか正午になってしまいます。

驚くべきことは、保育園や幼稚園に行っていない子の母親も、同じように、午前10時頃まで寝ているという家もあるほどです。また、子どもが朝寝してくれた方が、家事がはかどって助かると、喜んでいる母親さえいるほどです。

いずれにせよ、乳幼児期の、このような夜型の生活習慣は、子どもの日中の体調に影響を与えてしまいます。そして、小学校に入学して、朝決まった時間に登校しなければならなくなって、その体調のひずみは顕在化します

つまり、朝、しっかりと覚醒しないまま登校する。頭はボーッとしていて、注意力は散漫になります。身体もけだるい。まわりの子どもたちのすばやい動きについていけません。

ささいなことでムカッと怒り、乱暴をしたりする行動が目立ちます。教師のいっせいに呼びかけるやり方についていけません。高校1年生で、その子の目をみて、きちんと話しても、よく理解できないくらいですから当然です。

近年、小学校低学年の「荒れ」が問題になっていますが、この乳幼児期からの慢性的寝不足と生活リズムの未確立に、根本的な原因があると考えられます。

ひとつの例ですが、小学1年生のO君。鬼ごっこをしていて、自分が鬼になりそうになったら、急にルールを変えます。みんなが「おかしいよ」というと、怒りだして「死んでやる」といって、で教室にもどってしまいます。みんなが教室に入ってくると、ベランダから柵を乗りこえて外に出てしまいます。先生が二人がかりで、なかに引き入れたそうです。

授業がはじまっても、ゴロゴロ転がっている。注意をすると、ノートや教科書をどリビリと破ってしまいます。答え合わせをしていて間違えていたら、鉛筆をボキボキに折ってしまいます。

朝、クラスに入るなり、ある男子の顔をなぐってしまいます。わけを聞くと「朝、お母さんになぐられた。どうしてなぐられたのかわからない。イライラして、教室で殴った」とと話すのです。

こういう暴力は多いのです。この子の母親は、「私も八つ当たりでなぐることがある。この子には手を焼いている。おだてていい気分にさせておくと、よくやってくれる」というのです。

この子の生活は、安定していないのです。まず母親が、生活リズムを意識していません。さらに子どもに接する接し方も気分的です。

おだてたり、母親自身気に入らないと暴力をふるったりしているのです。O君の母親のように子育てについての最低の思想を身につけていない母親が多くなっているからでしょう。
自分の赤ん坊ができるまで、赤ん坊に触れたこともなかったという母親も多い時代です。今、あらためて親 になるための体験教育が必要なのだと思います。

そのなかで、人間も動物であり、同時に子育て期間の特別に長い動物であることや、子育てを自分の人生の喜びだと思える感性と知性などを、十分にと教えなければならないのです。そして、睡眠、摂食、性などの本能といわれるものも、長い子ども時代に、人間的に学習していくものであることも、理論的に理解させることが大切なのです。

評価ばかりが気になって自分に確信がもてない

子どもは、自分のさまざまな体験を通じて自分の可能性を身につけ、自分で行動することの喜びを見つけ、自分意識というものを確立すします。
そして、他人の評価ではなく、自分で、「この自分でいいのだ」と納得します。自己を欠点も含めて、肯定します。このような過程を経て、つまりアイデンティティというものを確立し、大人として生きていけるのです。

ところが、今、他人の評価ばかりを気にして、自分を肯定的に評価することのできない若者が増えています。そのなかには、「自分はみにくい」とか「自分はオナラをして、人にみられている」など、対人接触の障害になる病的な場合もあるが、このような病的な症状はなくても、社会参加へのステップをうまく踏みだせないで、悩む人が多いのです。

Mさんは、ある有名私立高校の3年生。しかし、本人には、第一心望校ではありませんでした。。第一志望校は、インフルエンザのために受験できなかっただけであって、失敗したわけではありません。

一年生、二年生のときには、成績は学年でトップでした。三年にすすみ、大学受験のことを考えるようになって、「私は、何のために勉強してきたのだろう」と考えるようになりました。「私には、成績しかなかった。あなたはできるといわれて、がんばれば成績はとれたので、がんばった。だけど、何のためだったの?私は、どんな勉強をしたのだろう?私には、わからない」などと考えこむようになり、4月から休みが多くなり、5月になったら、まったく不登校状態になってしまったのです。

昼夜逆転し、夜はテレビをみたり、手紙を書いたりしています。日曜日の夜などは、「明日からは行こう。だけれども、一番になれないし、大学に行ってもわからないし」などと落ち込んでしまうのです。

Mさんは、とてもまじめな性格、友だちとの関係も大事にしており、中学時代の友だちには、何でも打ち明けていまする。完全主義的なところがあり、他人からの評価を気にしてがんばってしまうタイプでした。

Mさんのように、他人からの高い評価を目標にする傾向が身についてしまうと、他人から低く評価されることをおそれて、自分の思考視野を狭くしてしまうわけです。

もっと迷ったり悩んだりして、自分で自分の生き方を選んでよかったのに、そのようなことを思いつかず、他人の評価というレールの上を走ってしまうのです。
現在の学校の偏差値による競争原理の下で、頭のいい子ほど、この他人の評価を目標にした競争に巻きこまれやすいのです。結局、Mさんは、カウンセラーのところに通い、気持ちの整理をし、また親も、「自分の人生は、自分で決めさせる」という割りきり方ができて、落ち着いてきました。

そして、6月には、通信制に切りかえ、そのサポート校に通うようにしたのです。まさに、「この道を走るように」強制されていた道をはずれて、少し時間は余計にかかるけれども、自分の足で確かめ、歩きはじめたのです。親は、もう見守ることしかすることはないのです。

生きることが喜びにならない子どもたち

人間の子どもも、他の動物の子どもと同じように、大人と自然の環境のなかで育てられます。けっして動物の子どもは機械によって育てられることはないのです。

ところが、現代は、子どものまわりにテレビ、テレビゲームなどの視聴覚刺激、自動車やエレベーターなどの移動機関、電灯や冷暖房などの人工的生活空間がとり巻いています。これら、大人にとっては楽しい・便利な機械文明は、子どもを育てる機能を本来もっていません。

あらゆる機械は、それを使いこなすことによって自分の労働を軽減したり、自分の力の足りないところを補ったり、さらに自分の欲求を一時満足させるために利用されるものでする。だから、機械は使用する人に大きな利益をもたらすわけです。つまり、努力しないで多くの仕事ができてしまうのです、努力しないで楽しむことができるなどのメリットがあります。

ところが、逆に、今、大人になるために「努力して筋肉をつけねばならない」とか「努力して勉強しなければならない」段階の者にとっては、それらのメリットは逆作用になってしまいます。つまり、努力する必要はないのです。子どもは、大人になるために多くの努力をしなければならない時期なのです。だから、努力してたくさんの喜びを得るような体験をしなければならないのです。

このような体験を与えることのできるのは、機械ではなく、人間の大人と自然なのです。小さいときから、テレビなどの視聴覚刺激を多く与えられて、人間同士の接触の少なかった子は、生きていることの感覚的な喜びを感じることができません。人間同士の接触に敏感になったり、こわがったりします。

また、機械のように便利なもので遊ぶことに慣れてしまった子は、わずらわしいルールや人と人が配慮しあうなどのことを面倒くさく、簡単にイラついてしまうのです。

テレビ局は、いったい誰のために深夜放送をするのでしょうか。少なくとも子どもの発達を保障する文化というものを考えるならば、テレビの深夜放送はやめるべきです。

テレビゲームというものも、子どもの健全な頭脳の発達にはまったく益はないし、ものを考えないためにのみ役立つのです。ちなみに、テレビゲームを操作するときに使われる神経回路は、動物的な反射回路のみであって、人間的な大脳皮質の回路は必要としていないという事実を、大人たちもしっかり自覚するべきでしょう。

結論としていえることは、現在のように機械文明のなかで子ども時代を体験する子どもたちは、周りの大人たちがよほど利口でないと、機械の特質に支配されて、人間としての能力を育てられないまま、大人になってしまうおそれは十分にあるということです。