子ども時代の意義について

人の一生は、子ども時代、成人時代、老人時代と3つに大きく区分されるのがふつうです。さらに細かく乳幼児期、学童期、思春期、青年期などと、細かく区切ることもあります。

このように区切るのは、それぞれの時期に他の時期と違う特徴があるからでするが、しかし、同時にそれぞれが独立してバラバラに存在するとは誰も考えていません。

乳幼児期のつぎに児童期があることは誰も疑わない事実、人の一生の過程は順序よく段階を踏んですすんでいきます。その過程の順序は、遺伝によって決められているのです。
子ども時代につづいて成人期がくること、そしてついで老人期がくることは、一度も狂ったことがありません。あなたの子どもは、かならず大人になり、あなたはかならず老人になる(突発的なことで死なないかぎりは)。

なぜ、こんなわかりきったことについて振り返るのかというと、多くの大人はこの世に現われてすぐ大人になってしまって、ここにいるように思いがちだからです。

自分の子ども時代なんてまるでなかったかのように、堂々と大人をふるまっています。現在の自分をつくりあげた子ども時代のことを棚にあげて、自分の子どもに接していることが多いのではないでしょうか?

それだけではありません。人の扱われ方そのものが、社会的に、たとえば医療の世界においてすらも、それぞれの区切りが絶対的な断絶になってしまっていることがあります。

たとえば、小児科と内科の断絶です。内科と外科のように治療方法論の違いで、そこに境界があるのだとしたら、それは納得できることですが、小児科と内科は、同じ個人を年齢で区切っているだけでする。

小児科の乳幼児期は、独特ですが、学童・思春期となれば、構造的にはほとんど質的な違いはありません。小児期から成人へは、はっきり連続していることを認めることができます。

さて、そこで、あらためて強調したいことは、働くもの、つまり勤労者の健康は、子ども時代の獲得物を土台につくられていくものです。さらに、老年期は、子ども時代の獲得物の上につくられた獲得物によって形づくられるのです。

あなたのその生活の仕方、その性格、その体質は、親から遺伝されたものよりも数百倍も多く子ども時代の産物なのです。あなたが、今育てている子どもの生き方や、ものの考え方は、多分、その子が大人になったときの生活のあり方を規定するでしょう。

あなた自身が、あなたの子ども時代の育ち方の結果であるように、あなたの子どもも、大人になって魔法にかかったように人格がかわるわけではないのです。子ども時代の体験学習(それは物質的に豊かであったか、貧しかったか。幸せであったか、悲しい体験が多かったか、大事にされたか、のけもののように扱われたかなど) によって、加大人としての人格はできあがります。

子ども時代の生活体験が多様であればあるほど、大人にななってからの人格も多様である。私たち大人は、周囲を見わたしてみて、1人として同じ性格の人のいないことに驚くくらいです。
性格テストなどでふるい分けをしたら、共通項などを見つけることはできるけれども、つきあってみれば決して同じという人はいません。

それは、子ども時代の生活体験の違いによるのである。人間の20年という子ども時代は、人間(それは大人である) の性格をつくる過程といってもよいでしょう。

それは前頭葉を中心とする大脳皮質の発達でもあります。子ども時代に発達した大脳、その表現型である性格をもって、大人になったときに、個性ある人間となります。その個性的な性格をもって、人間は社会のなかで生きていきます。それが自立です。

子ども時代は、その人の大人になってからの自立度、つまりさまざまなストレスのなかでどれだけ上手に生きいきと生きていけるかという能力を育成する重要な歴史的な時期なのです。
私たちのように、それなりに自立している大人からみると、「自分の性格がどのように形成されてきたか」などということに関心を払わないことが多々あります。

しかし、現在、知的レベルも高く学歴も相当ありながら、年齢は大人になっても社会参加抵抗があり、自立していない若者が増えているようです。

そして、彼らは、子ども時代の性格形成期に自分にマイナスの影響を与えた事柄や自分の体験のなかに愛情や友情などのプラスの体験があまりに少なかったことも思いだし、繰りかえし悩むのです。
それなりに自立できた大人にとっては、子ども時代はたんなるなつかしい思い出にすぎないことが多いが、十分に自立できない若者たちにとっては、それはできることならリセットして、まったく違うストーリーにつくり変えたい暗い体験だったりすることが多いのです。ここで、何人かの若者の例です。

大人として自立することのつまずき

大企業に就職したが、退職してフリーターが続かない

O君は、28歳。6年前にある有名な私立大学を卒業して、ある大企業に就職したのだが、「肌に合わない」といって、半年くらいで退職してしまいました。その後しばらく休んでウェーターのアルバイトをはじめました。まわりの人は「大卒で、どうしてこんなバイトをするのか」と聞きます。
「大学院を受けるためのつなぎ」という言い訳をしてごまかしていましたが、そうすると、いつまでもバイトに集中しているわけにもいかず、「受験勉強するから」とバイトもやめてしまいました。

それからも、小遣い稼ぎ程度にバイトをしながら、しかし、どこでも充実感の味わえない日々を送ってきました。「ここにいるのは本当の自分ではない。僕は、こことは違うどこかにいるべきではないか」などと考えるが、それは想像しても見えてこないのです。
多くのまわりの大人は、「人生は、1ヶ所に辛抱しないと道はみえてこないものだ。もっと1つの仕事を長くつづけなさい」というけれど、長くつづける情熱がわいてこないのです。

「すばらしい出会いがあるのではないか」と思って期待していくが、たとえガールフレンドができても、つき合っているうちに、つまらなくなって別れてしまう始末。

なにごとにも夢中になれない。精神科医やカウンセラーに相談したこともありますが、精神科医は、「軽いうつだろう」といって抗うつ剤をくれたが、どうも飲む気がしなくて、やめてしまいました。

カウンセラーは「話をきくだけで、何の指示も与えないので、逆にカウンセラーの考えをこちらが詮索するようになって疲れてしまいました。

というわけで、これもやめてしまいました。インドヘ1ヶ月くらい旅行したことがありました。このときは、「どんな生き方をしてもいいんだ」と割りきれて、気持ちが楽になって帰ってきました。
結局、28歳の現在まで、1年の3分の1くらい働いて、あとはのんびりしています。この「怠惰」であることをのぞけば、まったくふつうの青年である。親も、心配してきつく注意したりするとだまって自室に入ってしまうので、もうなにもいわなくなってしまいました。

「どこかで本人自身が転機をつかむしかないのであろうしと、今はあきらめています。O君は、こんなふうに語ります。「僕自身どうしていいかわからない。こういう傾向は中学生のころからあったと思います。

そのころは勉強もできたし、目標がありましたた。高校受験とか大学受験とか。本当は受験はステップなんだろうけど、僕にはゴールでした。
だから僕には生きるパッションみたいなものが育っていないのではないのでしょうか。
受験などをソツなくこなしていくテクニックはそれなりに身につけています。
これは、薬で治るものではないと思います。自分の性格なんだと思います。時々つらくなって、死にたいと思います。よく友だちには、自分に対してくやしがったり、イラついたりすると壁をぶったりするといっているヤツもいますが、僕は、そんなエネルギーもないのです。友だちとは軽いノリでつきあえるけど、べったりする関係はたまらないと思う…と。

不登校から家庭暴力へ

P君は、今は20歳。中学時代から、朝登校前になると腹痛があり、学校をよく休みました。高校で気分一新するつもりでしたが、当初から友だちがうまくつくれず、そのことがプレッシャーになって、1学期の5月ごろから休むようになりましたた。親が心配して部屋をのぞくと、「ウルセィ」といって、物をなげつけました、壁やドアを破るなどして大暴れしました。親があたらずさわらず
にすると、「なぜ起こさなかったのか」とか「(夜中に)C Dを買ってこい」などと文句や要即求をつきつけて暴れるようになりました。

とくに母親や妹に村して暴力的ででした。父親が意見すると、父親が会社にいっていないときに「あいつにチクッたな」といって、また母親に乱暴しました。

「こんなふうに学校へいけないのは、お前の育て方が悪いのだ」といって、過去のいろいろつらかったことを訴えて母親を責めるのです。
母親が謝れば、「謝ればすむと思うのか」とどなり、黙っていれば、「土下座して、100回謝まれ」と強要します。

こんなふうな家庭内暴力が3年間もつづき、高校は中退し、働きにでることもなく、家の中に同居しています。1年前に、父母が私のところに相談にみえました。
母親は、すでに神経症的状態でした。私の指導の基本は、暴力というコミュニケーションが家庭のなかで効果があってはいけない。暴力を振るわれたら逃げること。決して要求をのむな。暴力で暴力を抑えこむのもよくない(よく父親は、P君ととっくみ合いをしていた)。

親は非暴力、非干渉、非服従をつらぬくこと、でした。もちろん、それぞれの具体的な場面での対応も考えていかねばならないのですが、この基本を絶対にはずさないことがカギです。P君は、その後の1年間、暴力を振るわなくなりました。暴力という感情を激発させる行動がなくなってはじめて、人間は内省的になります。P君は、今、とても悩んでいます。しかし、それをまだ言葉にできないのです。20歳の誕生日に、母親がデコレーションケーキを買ってきて、妹と3人で祝いました。

P君は、久しぶりにうれしそうでした。ところが、父親が急いで帰ってきたら、P君はその場を立って自分の部屋に入ってしまいました。

まだ父親との心の交流はできていないのです。力の支配がこの家庭のなかに長く存在していた後遺症なのです。家のなかでは、父親が暴君であったP君は、依然として外には出られないのです。

群れのなかに入ると緊張してしまうのです。「僕は、いじめられないだろうか」という恐怖が走ってしまいます。だから、外出すると、とても疲れてしまうのです。あの神経疲労です。

P君のように登校渋りや、登校拒否を経験した子は、きわめて神経疲労におちいりやすいという特徴があります。たとえば、小さな集まりなどに出席しても、気づかれして急に口をきくのもいやになったり、イライラしたりします。

またそれに頭痛とむかつきなどの自律神経症状をともなう場合があります。これが神経疲労の症状であるが、そんな症状になる自分が腹だたしく、またいやになってしまいます。人にいやな感じを与えたのではないかと怖くなってしまうのです。そして、つぎにはそういう場に参加することができなくなるのです。
P君には、まだ社会参加の力が満ちてきていないのです。自立への道はまだ遠いといわねばなりません。

電車のなかで胸が苦しくなり不安神経症に

Nさんは、23歳。高校卒業後に、小さい会社の事務員として働いていました。明るくて気転のよくきく、頼られる女子事務員でした。

20歳のとき、会社の決算で夜遅くまで残業をして神経が疲れていたころ、友だちと遊びにいく電車のなかで急に胸が苦しくなっってしまいました。
息ができなくなり死んでしまうような恐怖にかられてしまいました。
はじめてのことで怖くなって、電車を止めたい気持ちでした。つぎの駅でおりて、駅長室にかけこんで、病院へ救急車でいった。病院で検査をしましたが異常なし。

過呼吸症候群といわれました。「命にはかかわらない、神経的なもの」といわれましたが、納得できませんでした。電車に乗ると、また起こるのではないかと思うと、実際に動悸がし、不安になってくるのです。

その後も、電車に乗ることを試みるのだが、そのつど実際に具合が悪くなるので、ますます自信をなくしていくの悪循環でした。その後、あちこちの病院を受診し、どこでも「気のせいです」と、器質的異常のないことを保障されています。

だから、頭では大丈夫ということはわかっているのだが、やはり電車に乗れない。電車恐怖症なのです。結局N さんは、この3年間、電車に乗る遠出をしていません。家族同伴の自動車の場合は比較的安心です。すぐ病院をさがしてそこに急行できるから。ところが、田舎はいけない。病院がそんなに多くは存在しないというイメージによって、ブロックされているのです。
彼女は、結局仕事をやめて、家事を手伝ったりしているが、いつも「いつ発作がおきるのだろうか。このように心配していて大丈夫だろうか?という気持ちで、多くの楽しみ、友だちとの遊びや旅行などを犠牲にしています。

Nさんのような不安神経症(類似の病名としては過呼吸症候群やパニック障害など、それぞれの疾病概念の境目があいまいなまま使用されている) が非常に増えています。
パニック障害についてはこちら。

過密な時間のストレスのなかで、ゆったりとしたテンポが失われ、いつも交感神経緊張がつづき、ふとしたことがきっかけで、不安・恐怖・パニックの← 理にとらわれてしまうのです。

もっとゆったりとした時間のリズムの流れのなかでは、このような不安・恐怖・パニックは多分少ないでしょう。また、たとえ起こったとしても、ゆっくりとした時間が、それを十分に癒してくれたでしょう。

Nさんは、とても有能な事務員であったが、この不安神経症のために、働くことができません。彼女に本当の安心感を与えられるのは、今のところ、恋人と医者だけです。こういう不安や極度の心配によって行動が制止されてしまう神経症も、社会的自立への障害物となるわけです。

自殺の予防

自殺念慮症候群ともなると、周りからもいつもと様子がちがうとわかるはずです。しかし、仕事上の打ち合わせだけだったり、業務はファックスで、面と向かって話し合うのはクレームの出たときだけというような、人間関係が粗末であると、「ちょっと元気がないな」という程度にしかわからないでしょう。

本人もできるだけ、周りに迷惑をかけないようにと思っているので、いつも暗い顔をしているわけではありません。われわれは、もっとお互いの個性がみえるような人間関係をつくらねばならないのです。

自ら自我意識を狭くしている人々には、「つらいときにはカウンセラーのところにいきなさい」とか「医者にかかりなさい」といっても、そのまま素直に通じるわけではありません。

それぞれの個性で悩みを打ち明けたり励ましあったりする関係を、どう構築していくのか。働く人々全体の大きい問題であると同時に、身近に悩んでいる人々を助ける具体的な問題でもあります。

このような個性的な人間関係が最大保障できるのは、家庭です。この大不況のときに、多くの自殺者、さらにその準備状態である「うつ病」や「神経疲労」が増えている現実のⅠつの背景に、現代日本の家庭の憩い、そして癒しの機能がきわめて低下していることもあるでしょう。

この機会に労働時間を短縮し、家庭ですごす時間を増やし、子どもと十分交流できる時間をつくることが、心身の健康を回復し、将来に少しでも希望をもつチャンスになるのではないでしょうか。

労働者、とくに中高年の自殺を防ぐには、労働者の生活意識を変え、家庭に帰る時間を確保する運動を強めると同時に、身近なところで、孤独に問讐解決しょうとするのではなく、心を柔軟に開くことを、お互いに確認しあう取り組みも必要といえるでしょう。

自殺念慮と自殺前症候群

人々には社会の大きな変動によって自らの身辺が動揺するとき、心理的・生理的に打撃をうけ、憂鬱、焦燥、絶望、孤独、無力感などを感じる「うつ状態」に陥ってしまうのです。

しかし、多くの人々は、周囲の援助や励まし、あるいはふとした発想の転換や自らのがんばりなどによって、なんとか事態の変化に気持ちを順応させます。そのときは、あとになって、「あのとき、よくも自殺しないでがんばったものだ」と、自ら振りかえることもあるくらい、必死に前向きに生きているのだろうと思われます。

この無我夢中でがんばるということが、さまざまな困難な新しい事態にぶつかったときに、大切な( 生きる力)なのですが、さきほど述べたような、神経疲労の状態にあるとか、プライドや競争意識によって思考の柔軟性を失っていると、この「無我夢中でがんばる」力が脚なかったり、困難が限りなく大きく見えたりして、自己否定的な気分を強く感じるようになってしまうのです。

そんなときに襲うのが自殺念慮である。自殺念慮というのは、「自殺したい」「自殺したほうが楽ではないか」という思いにとらわれることです。
自殺念慮自体、正常な心理状態ではないのだが、案外多くの人が体験しているものです。たとえ、そう思ったとしても、「自殺したいなんて、そんなことを考えるなんて、私はどうかしている」とか「そんなマイナス思考では何も解決しない」とか、自ら否定して、立ちなおる人もいますし、いつまでも、「死んだほうがいいのだ」という自己否定の感情に悩まされる人人もいます。

しかし、このような自殺念慮があったからといって、人は自殺するものではないのです。自殺念慮は、「私はダメな人間だ」とか「私は、どうせ役立たずなのだ」という自己否定の感情と同じぐらいに世の中には存在すると考えた方がよいでしょう。

しかし、それに対抗する意識「そんな弱気ではダメだ」「自分がしっかりしなくてはならない」などの自分を激励する感情もまた存在するのです。この自殺念慮を克服する力を、しっかりともっていることが重要なことです。
ところが、自らを激励し、乗りこえていく力が弱って、自殺が決行されるのには、概して受動的な気持ちになっており、そこに一種の強い力が働くようです。

中高年の自殺でよく聞く話は、「遺書もなく、明日の仕事の準備もしてあって、普段と変わりなかったのに」といわれるような発作的な自殺が多いのです。

「私は、これこれの理由で死を選ぶのです」などという文書を書く余裕などはない(もし余裕があったら、自殺念慮に打ち勝つポジティブな思考が働いたであろうと思われる) のです。
そこに、何らかの強制的な病的な心理メカニズムがあると考えられます。その心理メカニズムを明瞭に表現することはできないが、自殺未遂者が振りかえって述べていることなどから、現在、つぎのような自殺前症候群というものが考えられています。

自我意識の狭小化

まず、自我意識についてです。それは自分は自分であるという1つの確信です。「自分は(未熟であっても)がんばれる」「自分はなんとかなる」という自分の可能性を信じて、落ち着いている自分の意識といえばいいでhそうか?

多少ドキドキしたり、ハラハラしたりしても、深呼吸を1つして、「よし、やるぞ」などと自分を激励している自分。そのような自分の自覚です。健康なときは、この自我意識というものは外に向かって開かれており、まわりの変化を受けとめながら、他人と交流し、さまざまな栄養を吸収している発展的なイメージです。
そして、そんなときは、とてもこの自分を大事にしたいと思うものです。

ところが、自殺前症候群にあっては、この自我は、このように外に向かって開かれておらず、中へ中へと閉じこもろうとしている状態です。「自分はだめなのだ」「価値のない人間だ」「みんなとまじわれる値うちはないのだ」と、自分をとても微小な存在とみなしてしまいます。
「この仕事でも、自分はいなくてもいい存在だ」と信じるようになります。感情もマイナスの方向に向いており、周囲の事物への関心もうつろになってしまいます。

対人関係の狭小化

日常的な仕事の話はできるけれども、感情を込めてつきあうというような人間関係はどんどん狭くなっていきます。家族とも、感情的な交流ができないのです。

たとえば、妻などには、「疲れた」とか「もうダメかもしれない」とか本音をもらすけれども、一方的である。たとえば、妻が「がんばってちょうだい」といっても「無理をしないでいいよ」といっても、本人の思考にはあまり影響しないのです。
ある意味では自閉的になっている。ごく限られた人(妻ら)に一方的に話すことはあっても、意見を聞いて会話にするという余裕がない。
だから、対人関係はとても狭くなる。その結果、また「自分には、誰も相談する人がいない」とか「自分はひとりぼっちだ」といって、自分に対する確信がますます弱くなるのです。

価値観の狭小化

今まで生計の中心になってきた日本の中高年男性の場合は、とくに社会的な価値観を強く自覚していました。「自分のがんばりが、会社の業績を伸ばすのだ」「自分が会社の新しい分野を開拓するのだ」「自分が、妻子に不自由のない生活をさせているのだ」「自分がいなかったら、仕事が止まる」など、会社における成績を上げることで存在意義を自ら確認することができるという価値観が、彼らの自我意識を支えてきたといえるかもしれません。

もっと自然に自我意識をつくればいいのだが、日本の高度経済成長の下でつくられた競争原理、会社主義などによって、多くの人々は、社会的地位や社会的評価によって自分を決める癖がついてしまいました。

ところが、過去の業績はともかく、今からどれだけ役に立つかなど、従来の貢献度の基準はなくなってしまいました。自分が頼りにしてきた価値観が外側から崩されてしまったのです。

健康な人は、多くの価値観をもち、柔軟に自己点検をして、自我意識の崩れるのを予防するのだが、あくまでも社会的評価や競争原理にこだわっていると、それがどんどん無価値なものに思えてくるけれども、それに代わるものを見出せないのです。
そして、「自分は、役に立たない人間だ」「とくに、自分が存在する理由はないのだ」などと、自己否定の感情を促進することになるのです。

自殺への幻想

健康なときは、「自殺は怖い」「死ぬくらいならどんな苦労もできる」などと考える。自殺を罪悪視する対応感情も強く、自殺は遠い存在です。
しかし、自殺前症候群になると、自殺はさほど遠いものではなくなってしまいます。

「気持ちが楽になる」「長い眠り」「永遠の解放」などとソフトにイメージされています。それほど強く抵抗しなければならないほどのものではないかと思えるようになります。
「自分だけ楽になるのは卑怯だ」とか「あとに迷惑をかけるのはすまないな」とか、わずかな抵抗はあります。

だから、遺書は、短く「ゴメン」とか「許してください」とか、簡単なものになります。現実に乗りこえるのには、あまりに大きなエネルギーを必要とする困難があり、信じるべき自我はあまりに小さく、社会的に自分を生かす必要も感じられず、かつ、すぐ身近に「楽になる道」があると思えるとき、自殺はささいなキッカケで決行されてしまいます。

そのキッカケは、そんなに大きなものでなくてもいいのです。かならずしも、つらいことや過大なことだけがキッカケになるのではないのです。
長い間の苦労が実って、ホッと一息ということもキッカケになることもあります。自殺前症候群からかならず自殺が起こるわけでもありません。
いろいろのキッカケ(家人が気づいたり、本人が自殺の幻想からふと覚めたり) で、病院で受診して、助かる人なども非常に多いと思います。

そういう場合、診断は、「(自殺念慮もあった)うつ病」ということで終わるのです。以上からいえることは、自殺念慮があっても、人は自殺するのではないのです。
自殺が決行されるときの病的な心理状態が、ポイントになる。この自殺前症候群におちいったとしても、かなり多くの人は決行せず、決行しても未遂で終わっていると思われます。

しかし、今回の統計のように、既遂例がこんなに増えているのは、決行手段がきっと確実な方法をとられているケースだろうと思われます。