買い物依存症「Aさんの例」

30歳の専業主婦Aさんの例
子どもは、ひとりつ子の小学4年生の子がいる。Aさんは、日中は暇で、時間をもてあましています(消費文明は、家事すら機械化してしまったことによる)。

夫は、仕事人間。妻とゆっくり夜を過ごすことを考えられません。帰宅してもニュースやスポーツニュースを見るだけです。家庭文化をつくる努力がされていません。

たしかに、多くの家庭で、夜の団欒といえば、みんなでテレビをみることぐらいになってしまっています。
時々、夫婦ゲンカになる。とくに、Aさんの月経前でイライラしやすいときに、夫が酔って夜中に帰ってくるなどということになると、大ゲンカになります。

Aさんは、「私の寂しさはわかる? 」と訴えます。夫からみれば「こんなに楽をしていて、なんとぜいたくなことをいうのか」と反論。

ここには、2人で必死で生活をつくつていこうという生活感はありません。たしかに、2人にはローンを抱えているとはいえ、十分なお金はあるのです。
生きるために必死に力を合わせるという切迫感のない人工的なマンションのなかで、2人の心はよりそえないのでしょうか?

夫は、「オレが身を粉にして働いて、こんなぜいたくをさせている。何の文句があるのか!」と、経済的豊かさを強調します。イライイラしているAさんは、「あなたがその気なら、お金を使ってやる!」と宣言。

それから先は水かけ論になるのは当然です。

しかし、Aさんは、翌日おしゃれをしてデパートへ出かけ、怒りながら洋服売り場をみて歩いています。今日は、絶村に買うと決めているのです。

でも、ゆったりと楽しんでいるのではなく、何かにつかれたようです。そして、30万円ぐらいの買い物をして、Aさんは、やっとスッと肩の力がぬける思いがするのです。

30万円といっても、現金が出たわけではありません。Aさんも、金額を考えないわけではないのです。しかし、月々2万円程度払っていけばいいんだから、なんとかなるはず。「毎日、こんなことをするわけではない。今日は、夫にみせしめなんだ」と自分に納得させて、買ってしまったのです。

家に帰って、鏡の前で、Aさんは満足でした。このときの1回だけであれば、依存症とはいえないわけですが、Aさんは、その後、心の中が満たされない感じで、イライラすると、また出かけたくなってしまいます。

「今日は、ウインドウショッピングだけ」と、出かけるときは誓うのですが、気にいったものがあると、いつの間にか買ってしまっている自分を発見するのです。

Aさんも、出かける前は「見るだけ」と決心するし、後で後悔することも多いのですが、それでも、売り場につくと何かを探しているのです。

夫は、Aさんの行動からはまったく気づいていませんでした。前よりAさんの不機嫌が長くなくなったなという程度にしか理解していませんでした。

しかし、あるとき、カードの支払通知書をたまたま見ておどろきました。「これでは生活費がなくなる」と、驚いてA さんを問い詰めたところ、買い物をいっぱいしていることがわかったのです。

押入れや洋服ダンスは、まだ着ていないスーツや小物、日用雑貨などがあふれるくらいに入っていたのです。Aさんは、まだサラ金を利用していなかっただけよい方ともいえます。

とはいえ、これから500万円ぐらいは払っていかねばならない現実が待っています。Aさんは、今は、心から反省しているのですが、しかし、満ち足りていないのです。

そしてむなしい気持ちはやはり消えていません。夫も、妾の訴えを、ただ反論するだけでは解決しない深いものだと知って、家庭での時間を大切にしようと努力していますが、本当のところは、まだAさんとはしっくりいかないのです。

このAさんのケースなどは、現代社会の消費文明の究極の姿のよです。

Aさん夫婦には、共有する家庭文化がないのです。A さんは、時間がありすぎ、夫は、時間がなさすぎるのです。Aさんの夫のような男性は決して少なくないのです。
Aさんのように「買い物依存症」になる人は多くはないにしても、パチンコなどのギャンブルに凝っているいる女性や、時間が余るから気分転換にパートに出ているなどという人もけっこういるようです。

現代社会は依存を生み出しやすい

「依存」とは「自立」の反対語と考えることができます。時間のストレスが支配し、学歴を中心とする競争原理が、子どもの幼い時期の生活までもおおっている現代社会は、1つには、子ども時代に培われるべき自立する力が十分に育てられていないというケースを多く生みだしています。

こで述べる自立のための条件(精神的、性的、生活的、経済的) について、今の若者の多くがいかに不十分であるかは、よくわかると思います。

こういう自立の不十分さが、容易に依存行動をひき起こしていくきっかけになります。2つには、まさに大人になつて自立的に生きるべき年代に、ゆったりと文化的な時間を享受する時間がなく、あわただしく時間に追われて、自分の心理的・生理的心地よさを大切にすることができなくなっていることです。
こういう余裕のない状態のときに、安易なレクリエーションとして、飲酒、喫煙などの依存が生まれやすいのです。

3つ目には、現在は、モノがあふれています。ふつう、その豊かな物質文明のなかで餓死するなどとは想像できません。どうにかなるだろうと思います。
親か妻かがなんとかしてくれるだろうと思います。こういう生への必死な思いの必要ない環境のなかでこそ、依存が生まれるのです。

たとえば、アルコール依存症で1週間も食事をしないで朝からアルコールが切れないという人がいます。
家人が注意すると「オレの身体は、オレの勝手だ」「死んでもいいんだ」といって暴れて、酒を要求します。飢えてはいないが、アルコール漬けになって食事もできなくなり、脱水状態になって、結局病院にかつぎ込まれます。

どうしてここまで自制ができなくなるのでしょうか。1つにはアルコールの薬理作用という面もありますが、それだけではなく、生活態度も依存的になっているのです。

つまり、自分は酒を飲むと際限がないので、酒は飲んではいけないのだと自制、自己コントロールができないのです。まさに、この生活態度の自己抑制力の低下が、依存症という病態の特徴です。

つまり、自立の反対です。このような病態は、生きるか死ぬか必死にならなければならない物質的に貧しい時代には存在しなかったものです。

なにしろ酔いつぶれていては、自分の命を防衛することはできませんし、なによりも、現代のように余るほどモノはなかったのですから。

現代のように物質的な飽和状態では、あらゆるものが依存の村象になってしまいます。アルコールはもちろんのこと、シンナーとかある種の風邪薬、抗不安剤、覚醒剤などの薬物類。さらにパチンコとか買い物、ストーカー、アダルトビデオ、テレビゲーム、家庭内暴力なども、依存的な心理状態と関連しています。

依存症といえば、アルコール依存症が連想されるくらいに、アルコールという薬物は、現代的依存にぴったりの薬物ですが、このアルコール依存症に象徴される依存行動、依存的生活態度などという一つの生き方は、現代社会にもっと広くありうるのです。

依存するものは、さまざまです。消費物質があふれ、コマーシャルなどで乱費・乱用することを奨励する雰囲気がつくられて、かつ手ごろな価格で手に入るもの、あるいは、身近にあって支配しやすいものであればいいのです。

依存から自立した依存

現代日本は、ストレス社会であると同時に「依存」社会とも言える社会です。

「依存」というのは、独立していない頼りきっている状態といえます。人間の赤ん坊は、誕生したときはまったく大人に依存しています。生きることのすべてを大人にまかせています。

この生理的心理的依存が完全に保障されている子は、内発的に自立する力がついてきます。

親と子の関係は、親が子どもを完全に依存させていた状態から、徐々に依存の度を薄めながら、いずれ子どもが大人になる頃には、独立した個人として対等になるというプロセスです。
子どもが大人になったとき依存しなくなるためには、いくつかの条件が必要である。

  1. 精神的自立(自分の心を管理できること。孤独感とか、後悔とか、くやしさとかのマイナス感情にもある程度耐えられねばならない。自分の欲求や願望も冷静にコントロールできねばならない)
  2. 的自立(性的機能が健康に発達し、性的認識が倒錯していないことも大切である)
  3. 生活的自立(夜は眠り、食事をつくったり、あとかたづけしたり、楽しむことができる。疲れを、自らの生活の仕方で改善することができる)
  4. 経済的自立(自分の生活費は、自分の労働で得ることができる)

これらの条件は、かつての多くの若者にとって自然にのりこえられた課題でした。

たとえば、中学を卒業して集団就職で都市で働くようになった人たちは、親に依存していた子ども時代から、一夜にして自立することを迫られました。と同時に、親に依存した生活のなかで、そのような発達可能性は、ちゃんと培われていたのです。

だから、彼らは、工場で働く数年の間にすばらしく成長して大人らしく変身していったのです。そして、「がんばれば、何事も成しとげられる」というような人生観をしっかりと身につけることができたのです。しかし、かならずしも、がんばればなんとかなるものでないこともあるので、かつてすばらしく自立した彼らも、不測の環境の変化のなかで、自立できなくなってしまうもろさを露出する場合もあります。

ともかく、ここでいえることは、子ども時代、親に十分依存しているなかで、いずれ大人として自立する力が育っていくというです。

大人になってからも、親と子が助けあったり、夫婦が力を合わせて子どもを育てるとかの関係を通じて、多少依存的な関係があることは仕方ないが、そのような家族関係のなかでもできるだけお互いに自立しているという形が望ましいのです。

神経科外来でみる家庭内葛藤は、自立できない依存的な人物が家人を精神的負担や不安定感をつくつているというケースが多いのです。

過労性疾患に共通する3つの問題

ケースCの場合は、最近話題になっている大企業の過労死などとは異なり、街の工場や店で日常的に見聞きする過労のケースでした。

ここで、ひとりの病人をみた場合に、「このケースには過労の問題はからんでいない」か考えてみる視点をもつことが重要です。もちろん、から、検査なども大事であるが、検査ばかり重ねて、重篤な疾患がかくれていることもある病人をますます病人にしてもいけないし、検査で異常がないと、本人は具合が悪いのに「異常がない」と開きなおるしかないのも困るのです。
そこで、患者さんの生活をつぶさに聞いてみる必要があります。そして、つぎの3つをチェックします。

  1. 持続するストレスのなかでたえまなく交感神経緊張状態がつづいている
    この場合、ストレスの構造は複雑です。時間のストレスをまず基底的なストレスとして考えねなければなりません。たとえば、「いついつまでにやりとげる」などというのは、そのとき作業をしていなくても、頭脳のなかでは十分にストレスであり、交感神経緊張を強めています。また「これは、いつまで。あちらはいつまで」という並行的な課題は、いっそう交感神経緊張を高めます。そういう時間のストレスを基底にして、仕事の質や段取りや人間関係などが複雑に交感神経を興奮させています。こういうストレスと交感神経緊張の度合いと、その結果としての過労の可能性をしっかりと観察する必要があります
  2. 極端に睡眠時間が足りない
    1にも関連しますが、圧倒的に睡眠時間が足りないケースです。「人間は8時間も眠らなくてもいいのだ」とか、睡眠軽視論は多いけれども、経験的にいって、8時間程度寝床の中にいるということは大事です。「8時間の睡眠が必要だ」といって、やむをえず6時間しか眠れないことがあっても仕方ないでしょう。また、ぐっすり寝ることはなくても、8時間のゆっくりとした休息は、十分に意味があります。
    とくに、1のように交感神経緊張の時間が長いことが多い場合、その疲れをとり(副交感神経緊張に移行して)、活力を回復するためには、十分な睡眠が必要です。過労性疾患におちいる人はたいがいこの睡眠を軽視しています。
  3. 体を使っていない
    Cさんのように身体を動かす仕事の場合もあるが、AさんやBさんは、極端に身体を使っていません。これは、人類史上もきわめて不自然です。現在のように肉体労働と精神労働が分裂している現状は、やむをえないとするならば、AさんもBさんも、もっとスポーツをやるべきです。肉体の疲労と神経の疲労のバランスがとれ、そしてそのお互いに疲れを癒しあうような生活をしなければならないのです。ところが、睡眠時間すら保障されない労働者には、神経の気づかれをいやすようなダイナミックに汗をかき、快い疲労を感じるような身体運動の時間も、そして場所もないのです。
    現代のストレスは、超過密・長時間労働を頂点とする「時間のストレス」が、労働者の生理・心理に多大の影響を与え、家庭生活や私生活がこわされ、そして「過労死」などをふくむ過労性疾患を生み、全国民的な健康障害のもとになっています。いわゆる成人病や子どもの精神不安や落ち着かなさも、現代的ストレスを抜きに考えられないのです。このような現代的なストレスの問題を背景にふまえながら、日本人の健康の問題をさらに考えなければなりません。

神経疲労~過労性疾患へ

神経疲労は、たしかに休養に入りにくいけれども、気分転換をしたり、なんとか眠ることなどによって回復させることはできます。
たとえば決算期に残業も多く、ただ机にすわって集中した作業がつづいたとする。あとで肩もこるし、身体はだるく、気力も落ちていて、「ああ神経が疲れた」と自覚するでしょう。
そこで思いきって、休暇をとってゆっくり寝て、それからプールでひと泳ぎします。そうすると、気持ちのいい疲れで、その夜もまたよく眠れるでしょう。

こんなふうにして、神経疲労も回復するのです。ところが、この人に休日をとる暇もなく、つづけて休日もないようなデスク・ワークをしなければならないとしたら、神経疲労はさらに蓄積してしまうでしょう。
そして、「病気ではないか」と疑って受診する場合もあるかもしれません。

神経疲労が、回復する機会が与えられないまま(筋肉疲労は自覚症状が強く、自覚しやすいのでわかりやすいが)、蓄積していくと、結局は不安定な自律神経症状が慢性化するようになってしまいます。病名をつけれは「自律神経失調症」でです。

以下はいくつかの例です。

ケースA

Aさん(22歳)、独身。ある新聞社でパソコンで新聞紙面に文字と組版入力する仕事をやって4年になります。次のようなタイトなスケジュールです。

  1. 午後2時~午後9時
  2. 午後5時~午前1時(タクシーで帰宅)
  3. 午後7時~午前2時(会社で午前10時まで寝る)
  4. 午前10時~午後2時
  5. 休み

基本的にサイクルの繰りかえしです。就床時間、起床時間が、毎日異なります。またローテーションが週単位でないので定期的な予定(たとえはスポーツ・ジムに通うとか)を入れにくい状況です。
さらに、休養をとる時間が規則的にならず、結局休み方も能動的なものになりにくいのです。

Aさんは、この勤務がつづくなかで、不眠(とくに熟睡できない)、頭痛などの自律神経症状を訴えるようになりました。内科に受診し、脳のCTを撮りましたが異常なしでした。

よく眠れないせいか、人混みとか仕事などに異常に緊張しまする。じっとりと汗をかいたり、ミスをしないかとても気になったり、まわりの機械の音が気になったりするのです。
Aさんは上司にたのんで日勤だけの勤務に替えてもらいました。しかし、それだけでは睡眠もとくによくなったわけではありませんでした。

しかし、そろそろ夜勤のローテーションに近づいています。まず、このような不規則な深夜労働はまったく人間の生理に反するものです。

このような夜の人間の生理を無視した労働形態は非人道的です。Aさんは、多少神経質で、もともと覚醒・睡眠の生体リズムはよくないのですが、そういう体質は、このような不規則勤務ですぐまいってしまうタイプですA さんは、デスクでキーをたたく精神的緊張だけの労働といえるでしょう。
足や腰はなんの労働もしていないのです。この1つの生体のなかでのアンバランスも、体内の自律神経系を混乱させるわけです。

Aさんには、身体と心とが一致するような労働がありません。こういう労働の代わりになるものがスポーツです。Aさんは、熟睡できないから、身体がかったるいといってスポーツは全くしていません。高校時代サッカーをやっていたというが、働くようになってからは、ボールにさわったこともないというのです。

こういう多様な条件の重なりのなかで、Aさんの症状が存在するのです。

こういったA さんの現在の自律神経症状には、軽い安定剤を出して押さえたら、まず自らの力で熟睡できるようにスポーツをしっかりやるのが最適です。

ケースB

Bん(33歳)、独身。コンピュータ技師。ここ最近の不調は微熱と頭痛、食欲不振などです。高校を卒業してから、ずっとコンピューター関係の仕事。その十数年の間に4年ばかりコンピュータ学校の講師をしていたが、このころは体調は悪くなかったが、そのほかは、夜遅くまでコンピュータにとりくみ、朝は、朝食も食べないで出社するという毎日でした。

数年前から、建築会社の経理を1人で請け負うようになってから体調がおかしくなりました。たしかに暇のあるシーズンもあるのですが、月末になると、あらゆるデータが彼のところに集中し、請求書からさまざまな支払い関連の書類が彼のコンピュータを通過していきますく。たんに実務的なきつさよりも間違えてはいけないというプレッシャーの方がストレスになっていました。

数ヶ月前から夕方になると微熱がでるようになりました。微熱がでる頃は、作業に集中できなくて、頭が働かない感じを自覚していました。
。がんばっても能率はあがらないし、ウッカリしたミスを繰りかえしてしまいました。

Bさんは、内科的な検査をするために受診しました。各科で調べても炎症性のものはなく、神経科を疑われました。

Bさんの生活は、高校を卒業してから、スポーツらしいスポーツをやっていません。電車にのって会社に出て机にすわって、キーを打つ仕事だけです。
ほとんど汗をかいていません。まさに機械の部品のような生活です。

処方箋は、3ヶ月間休みをとり、そして、1日に1回軽く汗をかく運動が必要です。また、自宅では絶村コンピューターをいじらないこと、夜は早めに決まった時間に寝ることが必須です。

病人に薬を飲むことを指示するように、きちんと生活指導に従うように指示することがとても大切なです。Bさんは、1ヶ月もすると、毎日身体が軽くなり、だるさも改善しました。

表情もとても柔らかになりました。しかし、友人と東京などで遊んでくると、夕方に微熱がでてしまうというのです。これは、自律神経系の条件反射のようなもので、人混みなどで神経を使うだけで、熱が上がったりするのです。なにしろ、自然のなかで汗をかくことが、今の一番の遊びにならなければいけません。

ケースC

Cさんは、27歳。独身。和食の職人です。その日は、午後2時から午前1時までの勤務を無断欠勤していましたた。午前1時すぎに帰宅した同僚が、「意識不明で倒れている」のを発見して、救急車で搬送されて入院となりました。

心臓疾患や脳疾患が疑われました。Cさんは、緊急入院後、「尿がしたい」といって目を覚まし、その後は見当識も正常でした。朝食も食べ、吐きもしない。しかし、時間さえあれば寝ていました。
脳波検査も行われました。徐披がめだち、軽度異常であるというのです。
しかし、てんかんというには臨床症状もあわないし、私の神経科受診となりました。

職業は、年中無休の和食レストラン。勤務は午前10時から午後11過ぎ。日給月給で月5回の公休は保障されていますが、忙しければ手伝いに出ていました。

毎日の就寝は午前2~3時。起床は午前9時。昼食は、午後2~3時、夕食は午後9~11時。朝食はなし。休日は寝るだけです。しかし、ここのところは忘年会シーズンで、休みどころではありません。
そして、入院前日、無断欠勤になりましたが、その前日の夜中に帰宅してから、すっかり寝込んでしまったということです。途中、風呂もわかしたが、それも入ることもなく寝てしまったのです。

結局翌日の夜中に帰宅した同僚に救急車にのせられるまで、26時聞くらい寝ていたことになります。同僚は、病気で倒れているように思い、病院でもいろいろ検査されたが、結局なにも異常所見はありませんでした。

結局、過労による過眠状態であったのです。Cさんは、入院していろいろ検査をうけて、規則正しい生活をしているうちにすっかり元気になりました。もともとは体も丈夫です。きちんと規則正しい生活をすれば、元来身体を動かす職人なのであるから、元気で生活できるはずです。
Cさんは、とんでもない大騒ぎになったことで、自分の生活を見直すきっかけをつかみました。とはいえ彼のような外食産業の労働条件はきびしいのが現状です。身体がついてこなければやめればいい。人はアルバイトなどでなんとかなるというのが、多くの経営者の考えです。

過労の2パターン「筋肉疲労・肉体疲労」「神経疲労」

日常的に私たちが経験する疲労には2種類あります。

1.筋肉疲労・肉体疲労

ひとつめは「筋肉疲労」とか「肉体疲労」とかいわれているものです。たとえば、日曜日に家族でハイキングに行ったとき場合です。
山頂でお弁当を食べて、夕方家に帰ったときは、もうクタクタです。久しぶりに歩いたので足の筋肉痛です。ビールを飲んで眠れば、最高の気分でしょう。

つまり、「筋肉疲労」は、気分的には最高の気分、あるいは最高とまではいかなくても、気分はいいのです。いわゆる「神経が疲れた」という不快感がないのが特徴ですそ

れは、ハイキングのような好きなことでなくても同様です。畑仕事でも、庭の手入れであっても、あるいはドブの掃除であってもいいのです。

基本的に、身体の労働と心の労働が一致しているような仕事です。なにかの目的意識をもって身体全体を動かして、ある物事をなしとげる、そういう労働のあとの疲労は、基本的にこの筋肉疲労です。

全身をつかって全身が疲れ、頭脳の方は「成しとげた」という充実感などが残り、全体として快い休養を求めます。このような労働による疲労と休養の練りかえしが、人類の長い歴史のなかの生活であったのだろうと考えられるます。

大昔は、「神経疲労」などというものは存在しなかったのではないでしょうか。1日中身体はまんべんなく使われ、頭脳はいつも目的意識をとぎすますために使われ、身体の働きと心の動きは一致していたのでしょう。

2.神経疲労

ところが、身体は局所的にしか使わず、頭脳だけを使うような精神労働が誕生してから、いわゆる「神経疲労」が生まれたのでしょう。
「神経疲労」とは、身体の働きとは別に「気をつかう」「頭をつかう」「緊張する」などの精神労働に傾いた労働のなかで発生したのです。

そして、「神経疲労」は、「筋肉疲労」と比べていちじるしい違いがあります。それはきわめて不快感をともなうという点です。

「筋肉疲労」は、気持ちよく、いつの間にか睡眠に誘いこまれるというようなものです。その労働による身体の変化に満足感すら味わうことができるのです。

ところが、神経をつかったあとの「神経疲労」は、ぐったりとして、食事の用意をするのもいやで、人々の騒々しいのが気になってイライラしたり、ふとんに入っても眠れません。

つまり、快い休養へと導かれないのです。疲労しているのだから、休養に導かれるのが当然のプロセスですが、そうならないのです。
休養に導くためには別の手立てが必要になることもあります。たとえば、酒を飲むとか睡眠剤を飲むなどです。

「神経疲労」は、人間にとって不快なものです人間は、これまでの歴史のなかで「神経疲労」を自然に休養に導き、疲労を回復させる生理的なプロセスをもっていません。つまり、人類史上、新しい疲労なのです。

階級社会が成立する過程で、肉体労働と精神労働とに分裂がおこり、農民のように身体と心を統一的に働かせる労働者とは別に、机にすわって書いたり指示したり、考えたりする労働者も生まれたのです。

その頃から、多分、肩こりや偏頭痛や不眠症などの新しい病気が生まれたのではないかと考えられています。それは当時、新しい職業病の発生だったはずです。

産業革命後、さらには第二次世界大戟後の技術革新の大波のなかで、かつてのような重労働ではあったけれども心身統一的な労働がどんどん減り、肉体的には軽労働化が進み、反比例するように作業のスピード・アップ、個人責任の強化、目と指の限局された作業など、神経を極端に酷使する(筋肉のように、痛みやだるさなどの疲労サインを出さない神経の特徴のため) 作業が増えてきたのです。

そして、いまや仕事といえば、「仕事が終わって気持ちがいい」などという言葉は聞くことはできない。「ああ、やっと終わった。もうなにもする気がしない」などという不快な倦怠感の残るものとなってしまったのです。

私たちは、ここで、疲労には2つのパターンがあって、人を幸せな感じにするような筋肉疲労はどんどん減っていき、不快感の強い神経疲労を体験することが多くなっている、この時代の特徴をおさえておく必要があります。

過剰なストレス下での過労

超過密・長時間労働、長時間通勤などの「時間」のストレスが強くなり、休息・休養・睡眠などの疲労回復の条件が圧縮されることによって、人々の心身に過労が蓄積します。
つまり、過労になる。ストレスそのものは、変化するプロセスです。

高血圧傾向があればストレスによって血圧は上がり、ストレスがなくなれば血圧は下がるのである。ところが、そのストレス状態がつづけば、血圧が高くなるだけにとどまりません、

血圧はもともと少々の緊張でも上昇します。大きなストレスがかかれば上昇するのは当たり前です。

その他の交感神経症状も出てくる。たとえば頚重、顧がぼーっとする、仕事を指げだしたくなるなどである。これらは、血圧が上がりっ放しということもふくめて、ストレス状態が長くつづいているという過程の結果としての疲労です。

疲労は、結果であって、それは休息によって回復する機会が与えられないと、心身の故障を残してしまいます。

過労の意味

だいたい疲労という言葉は、「休めばなおるよ」という程度のときに使われるます。ところが、休息や休養を十分とれないくらいに過密に長時間働いていると、疲労は回復せず、蓄積して過労という状態になるのです。
だから、過労というのは、「ハイ、どうぞ休みなさい」といわれても、簡単には回復しない状態なのです。

しかし、それでも特別な手立てをとれば、過労も解消することは可能です。

たとえば、あるシステム・エンジニアが、かなり大きい仕事を引きうけている。当初は楽しくやっていたが、納期が近づいてくる。焦るけれど、思うようにできません。疲れて頭が働かないので眠ろうとするのだけれど、眠れない(疲労回復の休養がとれない) 状態がつづいて、とうとうギブアップしてしまいました。

これは疲労困債の状態です。これも過労という範疇でとらえます。

上司は、医者から睡眠剤をもらって1週間休めと指示をした。幸いにも、彼は、その指示に従って、コンコンと眠って1週間ぐらいで回復しました。

つまり過労状態も、このように一過性で、かつ思いきった対策できちんと回復するということもあるのですが、多くの場合、そううまくいきません。

過労の状態がつづくにもかかわらず、休養の機会が与えられず、結果的には長く療養しなければならないような病的な状態に至ることがあります。それが、現在、多くみられる「過労性疾患としての「自律神経失調症」です。

「心身症」と「自律神経失調症」の異なる点 | 自律神経失調症の基礎知識
https://jiritsu-guide.com/2013/05/23/%E3%80%8C%E5%BF%83%E8%BA%AB%E7%97%87%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E8%87%AA%E5%BE%8B%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E7%97%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%95%B0%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%82%B9/

過労性疾患としての自律神経失調症

自律神経失調の症状は、ストレス下ではいくらでも出現する症状です。たとえば徹夜を一晩すれば翌日は自律神経症状で悩まされるのはふつうです。
だから、このような徹夜のあとも、(一時的ではあるが)自律神経失調症といえなくもないでしょう。

このような日常的に体験する自律神経失調症状から類推して「自律神経失調症」を、「たいしたことのない病気」「気のもちよう」「休めばなおる」「そんな症状に負けるのは、精神が弱いのだ」などと、病気として扱われないことも多くあります。

たしかにたいしたことのない場合もあるし、気にしないでもいい程度の場合もあります。それは、なれない肉体労働をやって一時的に肩が凝ってしまったり、腰の筋肉痛を起こしたりするのと同じです。
しかし過労の結果、本格的に治療しなければ治らない、あるいはどんなにしても100%%元にもどらないのではないかと思われるような「自律神経失調症」は存在するのです。

ストレスに対する構え方

ストレッサーは、生身の人間を襲います。それを受けとめる側の身体的条件、体質の問題も大事なことは当然ですが、そのストレッサーを、しつかりと受けとめる心構えのあり方もとても重要です。

動物のストレッサーに対する行動のあり方は単純です。遺伝された反応パターンのいくつかのなかで行動します。ところが、人間は、生まれてからの長い子ども時代にさまざまな反応の学習を通じて、ひとりひとり独特な性格になります

Aさんは、「どうだい、君にこれはできますか?」と言われて課題を与えられると、「なにクソ!」とがんばる力がわきます。ところがBさんは「できそうにないな。やめときます」と引き下がります。
Cさんは、「むずかしそうだけど「断るのはみっともないな。人はなにをいうだろう」と遽巡しています。

もっといろいろなケースが考えられるし、もっとたくさんのケースがあります。、この3つの場合でも、ストレッサーから受ける影響にはそれぞれ違いがあります。

Aさんは、うまくいけば大きな達成感を味わい、成長する。Bさんは、ストレスもないかわりに充実感がありません。Cさんは、一番ストレスをためこみやすい。かつ満足感も少なく疲労しやすいでしょう。

また、別の場合にはこうなります。仕事が1つ終わったとき、Aさんは、「やった!終了した!。最終のチェックをして、ハイ、終わり」と、きれいにかたづけました。HBさんは、「一応終わったけれど、なんとなく心配だな。明日またたしかめてみよう」と、なんとなく気がかり。Cさんは、「これで、終わったけれど、途中でAさんがへんなことをいっていたな。なにか別の心配があるのかな」などと、振りかえり、なかなかけじめがつきません。Cさんが一番ストレスをためこみやすいといえるでしょう。

このように同じストレスであっても、それを受けとる人の構え方の問題は大きいのです。同じ労働条件のなかにあっても、それをどうこなすか。どんなに忙しくとも、要領よく休息のできる人と、もう心配になって先へ先へと考えて休息できない人と、これでは影響の受け方も違うのです。

とはいえ、現代の日本の超過密・長時間労働は、労働者の性格や心構えの個人差すら塗りつぶしてしまう勢いであることも否定できません。
サービス残業、フレックスタイム、あるいは長距離通勤など、客観的に労働者の休息時間がつくれなくなっていまする。新幹線通勤で、列車のなかで睡眠を確保しているという人がいるくらいです。個性的な休息の選択というには、あまりに貧しいのです。

ストレスを受ける側の身体的条件

ある人は高血圧だったが、同じような環境のなかにあっても、胃が痛くなる人もいれば、不眠症になる人、下痢をする人など、さまざまです。

たとえば、一生懸命とりくんだ1つの商談が成立直前になって、他社の割りこみによって難航してしまい、また交渉しなおしのなってしまったとします。
しかし、まったくだめになったわけではないのです。こんなとき、だれでもイライラしたり、憤ったり、あせったり、不安になったりするものです。

その人の性格や心構えとも関係するのですが、こんなときは、心身はものすごいストレス状態であることは、だれでも同じです。

ところがある人は、他社の割りこみに頭にきて興奮しています。しかし、「負けるものか!」と新しい作戦を考えます。

そのうちに血圧がぐんぐん上昇してしまいます。

また別の人であれば、頭にくるけれども、「それ以上にいい手を考えねばならない。ここまできていい手なんてあるだろうか?」と不安が先に立つ。食欲はなくなり、胃が痛いという症状がでてきます。

またある人は、「やっぱりだめかもしれない。そういえば、最初から悪い予感がしたんだ。あそこで手を打っておかなかったからなァ」などと悲観的になって、夜もクヨクヨ考えてしまいます。
朝、おなかの調子が悪くて、お腹を下してしまいます。

同じストレスでも体に及ぼす影響は人それぞれ

やや極端な比べ方をしましたが、このように同じストレスでも、そのとらえ方はとても個性的です。かつ、身体の受ける影響もさまざまです。

ストレスを受ける側の身体的条件は、子ども時代から現在までに学習し、身につけてきた身体の反応の仕方である。これを一応「体質」といいます。

「体質」とは、生まれつきのものでなく、生まれつきの素質を中心にしながらも、生育史のなかで学習して形成されるものです。

たとえば、高血圧になりやすい人は、親も高血圧でです。したがって高血圧になりやすい素質は遺伝されているのでしょうが、さらに子どものころの食生活のなかで学習した食習慣や、また、せかせかしているとか心配症などの行動パターンの学習とか、他の病気になりにくい体質とかが複合的に、現在の体質をつくっているのです。

体質は、変化するものです。高齢者になって高血圧症の人でも、20~30歳代の頃は低血圧症だつたという人は多いものです。若い間は、生活管理の仕方によって、かなり変化するけれども年をとると、若いときに比べると体質は固定的になってしまいます。

いわゆる成人病というのは、言葉をかえると体質の固定です。だから、ずっ生活管理を受けなければなりません。
あるいは一生薬物療法で管理する必要があるのえす。

そういう固定化した体質のうえに、急激なストレッサーが加わると、心筋梗塞とか脳卒中などの急性発症に至るのです。現代の日本では、ストレスはどの年齢層にとっても過酷です。

だがら、ストレッサーを軽減(子ども時代には適切に)していく社会運動(労働~市民運動)も大切ですが、一方では、自らの身体的条件をいつもよくしておく努力も意識的にしなければならないのdす。

よく「身体が資本」といいますが、健康な高齢者は、やはり成人痛などの有害な慢性疾患を背負いこんでいないのです。健康で老いるためには、成人期になってチェックされはじめる慢性疾患をできるだけコントロールしておくことです。

能力主義がストレスを最大に

近年、過労死といわれる労働のストレスと関連して起こる急性死をよく耳にするようになりました。こんなことは、かつて労働組合が「合理化」反対闘争にとりくんでいた頃は考えられなかったことなのです。
機械化・合理化によって時間内の労働が過密になり、能力主義によって労働者がひとりひとり分断されるようになって、労働者各自の責任と緊張は高まりました。
このような「合理化」・能力主義の下で、労働者の健康管理は軽視されるようになってしまったのです。

労働安全衛生法などによって健診活動などは広く行われるようになったが、また食事や運動などの個人生活指導はマニュアル化しているけれども、一方では、「時間のストレス」、つまり不規則・過密・長時間労働をバラバラに分断された労働者個人の責任で行わせるという方向が強まっています。

健診で異常所見があっても、それは個人の生活習慣の問題にされ、労働実態のなかでフォローすることができない場合が多いのです。
また、健診で異常がなかったから、どんな労働をしても大丈夫という免罪符につかわれている場合すらあるのではないかとさえ想います。

労働者は、もっと自分の症状(血圧などのデータの変化なども含めて) と労働生活との関係に関心をもつべきなのです。
もちろん、これまでにも述べてきたことであるが、ストレスはそれを乗りこえることで生きがいになるという側面をもっているのだから、ストレスそのものに対して過敏になってはいけません。

積極的にストレスに取り組むという姿勢も必要です。しかし、時間・光・音などの人工的なストレスは、ある限界をこえると有害です。
その限界を教えてくれるのが自分の症状です。自分の症状を神経質にではなく正確に知り、医師のアドバイスも受けながら、自らの健康管理に責任をもち、そしてそれをオープンにしていく勇気をもつべきでしょう。ひとりで「このままでは死んでしまう」と思っているのではとても体がもちません。

「このままではまいってしまう」ことを、同僚や家族に言うことが大切なのです。自分の体質が今まさに遭遇しているストレスに耐えられるかどうか、知らねばなりません。
そして、休養・休息・休暇を要求しなければなりません。このようにとらえると、自らの身体的条件を守る問題は、次の心理的問題、ストレスに対する心構えの問題とつながってくるのです。

ストレッサー

ストレッサーというのは、ストレスの素で心身にひずみをおこすすべての外的刺激といえます。まず、人間にとって最初のストレスは、気温、気圧などの自然現象でした。
さらに、外敵に対する恐怖、たたかうときの緊張なども大きなストレスでした。しかし、人間同士はストレスではありませんでした。

あくまでも、守りあう、助けあう仲間だったのです。人間の長い歴史のなかで、複雑な感情体験を経験するようになったけれども、人間関係の根本は、信じあい、愛しあう感情なです。

人間関係のなかに、打算や憎しみや恨み、競争、あるいは殺意などの感情が生まれたのは、人間の歴史のなかでは日が浅いのでしょう。

かく信じるのは、人間の子どもは全面的に大人を信じて生まれ、育っているという事実からです。これは、動物一般にいえることであって、同種の動物は決して憎みあわないのです。

発情期に雄同士の激しいたたかいもあるが、あれは種族をしっかりと残すための宿命的方法です。人間は、それを乗りこえられる動物であるはずですだ。

人間関係が本当に愛情深い関係に発展する可能性を信じている人がほとんどです。現代のような人間関係が最大のストレスのように立ちあらわれる時代は本当に人間関係が快く、豊かである未来社会の前の過渡期でなければならないと思っています。要するに、本来ストレスでありえなかった人間関係も、競争、憎しみなどのストレスになってきたということです。そして、いつの間にか、人間不信、性悪説などに裏うちされるような「人間として生きていることのつらさ」まで、私たちは感じるようになってしまったのです。

また、「生きていることすら、ストレスだ」という悲しい時代です。

時間、音、光のストレス

そして、さらに生活時間がせわしくなることによって、人間関係をゆっくりと修復させる余裕も、ゆっくりと自然とともに生活する余裕もなくなっています。
つまり、これが「時間のストレス」です。そして、さらに光や音、スピードなどの人工的機械的刺激も大きなストレスになってきています。
電気の発明によって、24時間行動することができ、人力よりも正確で効率的な働きをする機械によって、生産はスピード・アップしました。
機械は、騒音を発生し、人間の鼓膜が耐えられない音刺激を際限なく与えつづけてしまいます。
また、機械はあらゆる音を録音し、繰りかえし聞かせることが可能です。
この昔の再現可能性は、私たちのあらゆる生活場面に入りこんでいます。

この音のストレスは、光の刺激以上に人間に与えるストレスとして注目すべきです。というのは、光は、目をとじるとかカーテンをするとかで、まだ遮断することは可能であるが、音は遮断できない。

聴機能は、あらゆる音刺激のなかから自分に都合よく音を識別するように発達したものです。だから、開放系であり、すべての音が感知されるようになっています。

かつて人間は自然の音や、人間の発する音でも再現性のない音のなかで育ってきました。ところが、今や幼児にもテレビの音やCD の音楽が聞かされます。

若者が山を歩いていてもウォークマンを開いています。異常なことです。このようにして、人間の能力や計算力や疲れやすさを凌駕するこれらの機械によって、生産力を上げようとする企業論理は、人間の生理にまったくおかまいなく、私たちの生活時間をスピード・アップさせました。
こうして、時間は、ストレスとして私たちの前に立ちあらわれたのです。

ストレスは学習されていく

私たちは普段の生活のなかでのストレッサーは、1つや2つではありません。時間のストレスという大枠のなかで多様にからみあって、私たちをつねに刺激しつづけています。そのなかで私たちは生まれ、成長し、働き、そして老いていくのです。この人生は、ストレッサーとのたたかいと調和の積みかさねでもあるのです。

子どものときに、どんなストレッサーと遭遇し、それをどう乗りこえたかということが、その子の体内に学習されたものとして残ります。

心理的には性格の根として、身体的には体質としてです。子どもは、日々ストレッサーとの遭遇によって、その体験学習によって自分を形成していきます。

同じようなストレッサーであっても、4歳の幼児期と10歳の学童期では異なります。たとえば、親に手をあげられる体験1つでもその感じ方が違うだけでなく、あと後に残す影響は大きく違います。

子ども時代は、将来大人になったときの「生きる力」をつくるので、子どもの発達段階にふさわしいストレッサーと出会い、それを乗りこえるという体験が大切なのです。

たとえ、とても悲しい体験であっても、大人に守られて乗りこえていくことで、その子は成長できるのす。現代は、むしろ子ども時代に大切なストレッサーと出会わないように配慮されすぎて、ストレスに弱い大人になるというケースも多いでしょう。

ストレッサーは、時間の余裕のあるところで、その人の体質や性格(子どもの場合は発達段階を加えて) に適切な程度であるのが一番理想です。

「適切な」とは、どの程度でしょうか?。むずかしいことですが、「少し努力すれば乗りこえられる程度」といえると思います。それが、適切でなく強烈でかつ持続的につづく、あるいは、まったく非生理的で悪影響を与えるだけというようなストレッサーの場合、健康障害になってしまいます。

仕事上での多くのストレスは、緊張や不安が基底的なストレスで、さらに最近の不景気による悲観的な状況もストレスを強めているでしょう。