ストレスに対する構え方

ストレッサーは、生身の人間を襲います。それを受けとめる側の身体的条件、体質の問題も大事なことは当然ですが、そのストレッサーを、しつかりと受けとめる心構えのあり方もとても重要です。

動物のストレッサーに対する行動のあり方は単純です。遺伝された反応パターンのいくつかのなかで行動します。ところが、人間は、生まれてからの長い子ども時代にさまざまな反応の学習を通じて、ひとりひとり独特な性格になります

Aさんは、「どうだい、君にこれはできますか?」と言われて課題を与えられると、「なにクソ!」とがんばる力がわきます。ところがBさんは「できそうにないな。やめときます」と引き下がります。
Cさんは、「むずかしそうだけど「断るのはみっともないな。人はなにをいうだろう」と遽巡しています。

もっといろいろなケースが考えられるし、もっとたくさんのケースがあります。、この3つの場合でも、ストレッサーから受ける影響にはそれぞれ違いがあります。

Aさんは、うまくいけば大きな達成感を味わい、成長する。Bさんは、ストレスもないかわりに充実感がありません。Cさんは、一番ストレスをためこみやすい。かつ満足感も少なく疲労しやすいでしょう。

また、別の場合にはこうなります。仕事が1つ終わったとき、Aさんは、「やった!終了した!。最終のチェックをして、ハイ、終わり」と、きれいにかたづけました。HBさんは、「一応終わったけれど、なんとなく心配だな。明日またたしかめてみよう」と、なんとなく気がかり。Cさんは、「これで、終わったけれど、途中でAさんがへんなことをいっていたな。なにか別の心配があるのかな」などと、振りかえり、なかなかけじめがつきません。Cさんが一番ストレスをためこみやすいといえるでしょう。

このように同じストレスであっても、それを受けとる人の構え方の問題は大きいのです。同じ労働条件のなかにあっても、それをどうこなすか。どんなに忙しくとも、要領よく休息のできる人と、もう心配になって先へ先へと考えて休息できない人と、これでは影響の受け方も違うのです。

とはいえ、現代の日本の超過密・長時間労働は、労働者の性格や心構えの個人差すら塗りつぶしてしまう勢いであることも否定できません。
サービス残業、フレックスタイム、あるいは長距離通勤など、客観的に労働者の休息時間がつくれなくなっていまする。新幹線通勤で、列車のなかで睡眠を確保しているという人がいるくらいです。個性的な休息の選択というには、あまりに貧しいのです。

ストレスを受ける側の身体的条件

ある人は高血圧だったが、同じような環境のなかにあっても、胃が痛くなる人もいれば、不眠症になる人、下痢をする人など、さまざまです。

たとえば、一生懸命とりくんだ1つの商談が成立直前になって、他社の割りこみによって難航してしまい、また交渉しなおしのなってしまったとします。
しかし、まったくだめになったわけではないのです。こんなとき、だれでもイライラしたり、憤ったり、あせったり、不安になったりするものです。

その人の性格や心構えとも関係するのですが、こんなときは、心身はものすごいストレス状態であることは、だれでも同じです。

ところがある人は、他社の割りこみに頭にきて興奮しています。しかし、「負けるものか!」と新しい作戦を考えます。

そのうちに血圧がぐんぐん上昇してしまいます。

また別の人であれば、頭にくるけれども、「それ以上にいい手を考えねばならない。ここまできていい手なんてあるだろうか?」と不安が先に立つ。食欲はなくなり、胃が痛いという症状がでてきます。

またある人は、「やっぱりだめかもしれない。そういえば、最初から悪い予感がしたんだ。あそこで手を打っておかなかったからなァ」などと悲観的になって、夜もクヨクヨ考えてしまいます。
朝、おなかの調子が悪くて、お腹を下してしまいます。

同じストレスでも体に及ぼす影響は人それぞれ

やや極端な比べ方をしましたが、このように同じストレスでも、そのとらえ方はとても個性的です。かつ、身体の受ける影響もさまざまです。

ストレスを受ける側の身体的条件は、子ども時代から現在までに学習し、身につけてきた身体の反応の仕方である。これを一応「体質」といいます。

「体質」とは、生まれつきのものでなく、生まれつきの素質を中心にしながらも、生育史のなかで学習して形成されるものです。

たとえば、高血圧になりやすい人は、親も高血圧でです。したがって高血圧になりやすい素質は遺伝されているのでしょうが、さらに子どものころの食生活のなかで学習した食習慣や、また、せかせかしているとか心配症などの行動パターンの学習とか、他の病気になりにくい体質とかが複合的に、現在の体質をつくっているのです。

体質は、変化するものです。高齢者になって高血圧症の人でも、20~30歳代の頃は低血圧症だつたという人は多いものです。若い間は、生活管理の仕方によって、かなり変化するけれども年をとると、若いときに比べると体質は固定的になってしまいます。

いわゆる成人病というのは、言葉をかえると体質の固定です。だから、ずっ生活管理を受けなければなりません。
あるいは一生薬物療法で管理する必要があるのえす。

そういう固定化した体質のうえに、急激なストレッサーが加わると、心筋梗塞とか脳卒中などの急性発症に至るのです。現代の日本では、ストレスはどの年齢層にとっても過酷です。

だがら、ストレッサーを軽減(子ども時代には適切に)していく社会運動(労働~市民運動)も大切ですが、一方では、自らの身体的条件をいつもよくしておく努力も意識的にしなければならないのdす。

よく「身体が資本」といいますが、健康な高齢者は、やはり成人痛などの有害な慢性疾患を背負いこんでいないのです。健康で老いるためには、成人期になってチェックされはじめる慢性疾患をできるだけコントロールしておくことです。

能力主義がストレスを最大に

近年、過労死といわれる労働のストレスと関連して起こる急性死をよく耳にするようになりました。こんなことは、かつて労働組合が「合理化」反対闘争にとりくんでいた頃は考えられなかったことなのです。
機械化・合理化によって時間内の労働が過密になり、能力主義によって労働者がひとりひとり分断されるようになって、労働者各自の責任と緊張は高まりました。
このような「合理化」・能力主義の下で、労働者の健康管理は軽視されるようになってしまったのです。

労働安全衛生法などによって健診活動などは広く行われるようになったが、また食事や運動などの個人生活指導はマニュアル化しているけれども、一方では、「時間のストレス」、つまり不規則・過密・長時間労働をバラバラに分断された労働者個人の責任で行わせるという方向が強まっています。

健診で異常所見があっても、それは個人の生活習慣の問題にされ、労働実態のなかでフォローすることができない場合が多いのです。
また、健診で異常がなかったから、どんな労働をしても大丈夫という免罪符につかわれている場合すらあるのではないかとさえ想います。

労働者は、もっと自分の症状(血圧などのデータの変化なども含めて) と労働生活との関係に関心をもつべきなのです。
もちろん、これまでにも述べてきたことであるが、ストレスはそれを乗りこえることで生きがいになるという側面をもっているのだから、ストレスそのものに対して過敏になってはいけません。

積極的にストレスに取り組むという姿勢も必要です。しかし、時間・光・音などの人工的なストレスは、ある限界をこえると有害です。
その限界を教えてくれるのが自分の症状です。自分の症状を神経質にではなく正確に知り、医師のアドバイスも受けながら、自らの健康管理に責任をもち、そしてそれをオープンにしていく勇気をもつべきでしょう。ひとりで「このままでは死んでしまう」と思っているのではとても体がもちません。

「このままではまいってしまう」ことを、同僚や家族に言うことが大切なのです。自分の体質が今まさに遭遇しているストレスに耐えられるかどうか、知らねばなりません。
そして、休養・休息・休暇を要求しなければなりません。このようにとらえると、自らの身体的条件を守る問題は、次の心理的問題、ストレスに対する心構えの問題とつながってくるのです。

ストレッサー

ストレッサーというのは、ストレスの素で心身にひずみをおこすすべての外的刺激といえます。まず、人間にとって最初のストレスは、気温、気圧などの自然現象でした。
さらに、外敵に対する恐怖、たたかうときの緊張なども大きなストレスでした。しかし、人間同士はストレスではありませんでした。

あくまでも、守りあう、助けあう仲間だったのです。人間の長い歴史のなかで、複雑な感情体験を経験するようになったけれども、人間関係の根本は、信じあい、愛しあう感情なです。

人間関係のなかに、打算や憎しみや恨み、競争、あるいは殺意などの感情が生まれたのは、人間の歴史のなかでは日が浅いのでしょう。

かく信じるのは、人間の子どもは全面的に大人を信じて生まれ、育っているという事実からです。これは、動物一般にいえることであって、同種の動物は決して憎みあわないのです。

発情期に雄同士の激しいたたかいもあるが、あれは種族をしっかりと残すための宿命的方法です。人間は、それを乗りこえられる動物であるはずですだ。

人間関係が本当に愛情深い関係に発展する可能性を信じている人がほとんどです。現代のような人間関係が最大のストレスのように立ちあらわれる時代は本当に人間関係が快く、豊かである未来社会の前の過渡期でなければならないと思っています。要するに、本来ストレスでありえなかった人間関係も、競争、憎しみなどのストレスになってきたということです。そして、いつの間にか、人間不信、性悪説などに裏うちされるような「人間として生きていることのつらさ」まで、私たちは感じるようになってしまったのです。

また、「生きていることすら、ストレスだ」という悲しい時代です。

時間、音、光のストレス

そして、さらに生活時間がせわしくなることによって、人間関係をゆっくりと修復させる余裕も、ゆっくりと自然とともに生活する余裕もなくなっています。
つまり、これが「時間のストレス」です。そして、さらに光や音、スピードなどの人工的機械的刺激も大きなストレスになってきています。
電気の発明によって、24時間行動することができ、人力よりも正確で効率的な働きをする機械によって、生産はスピード・アップしました。
機械は、騒音を発生し、人間の鼓膜が耐えられない音刺激を際限なく与えつづけてしまいます。
また、機械はあらゆる音を録音し、繰りかえし聞かせることが可能です。
この昔の再現可能性は、私たちのあらゆる生活場面に入りこんでいます。

この音のストレスは、光の刺激以上に人間に与えるストレスとして注目すべきです。というのは、光は、目をとじるとかカーテンをするとかで、まだ遮断することは可能であるが、音は遮断できない。

聴機能は、あらゆる音刺激のなかから自分に都合よく音を識別するように発達したものです。だから、開放系であり、すべての音が感知されるようになっています。

かつて人間は自然の音や、人間の発する音でも再現性のない音のなかで育ってきました。ところが、今や幼児にもテレビの音やCD の音楽が聞かされます。

若者が山を歩いていてもウォークマンを開いています。異常なことです。このようにして、人間の能力や計算力や疲れやすさを凌駕するこれらの機械によって、生産力を上げようとする企業論理は、人間の生理にまったくおかまいなく、私たちの生活時間をスピード・アップさせました。
こうして、時間は、ストレスとして私たちの前に立ちあらわれたのです。

ストレスは学習されていく

私たちは普段の生活のなかでのストレッサーは、1つや2つではありません。時間のストレスという大枠のなかで多様にからみあって、私たちをつねに刺激しつづけています。そのなかで私たちは生まれ、成長し、働き、そして老いていくのです。この人生は、ストレッサーとのたたかいと調和の積みかさねでもあるのです。

子どものときに、どんなストレッサーと遭遇し、それをどう乗りこえたかということが、その子の体内に学習されたものとして残ります。

心理的には性格の根として、身体的には体質としてです。子どもは、日々ストレッサーとの遭遇によって、その体験学習によって自分を形成していきます。

同じようなストレッサーであっても、4歳の幼児期と10歳の学童期では異なります。たとえば、親に手をあげられる体験1つでもその感じ方が違うだけでなく、あと後に残す影響は大きく違います。

子ども時代は、将来大人になったときの「生きる力」をつくるので、子どもの発達段階にふさわしいストレッサーと出会い、それを乗りこえるという体験が大切なのです。

たとえ、とても悲しい体験であっても、大人に守られて乗りこえていくことで、その子は成長できるのす。現代は、むしろ子ども時代に大切なストレッサーと出会わないように配慮されすぎて、ストレスに弱い大人になるというケースも多いでしょう。

ストレッサーは、時間の余裕のあるところで、その人の体質や性格(子どもの場合は発達段階を加えて) に適切な程度であるのが一番理想です。

「適切な」とは、どの程度でしょうか?。むずかしいことですが、「少し努力すれば乗りこえられる程度」といえると思います。それが、適切でなく強烈でかつ持続的につづく、あるいは、まったく非生理的で悪影響を与えるだけというようなストレッサーの場合、健康障害になってしまいます。

仕事上での多くのストレスは、緊張や不安が基底的なストレスで、さらに最近の不景気による悲観的な状況もストレスを強めているでしょう。

ストレスと病気

ストレスとは、心身におこる「ひずみ」のことですから、当然、心身の不健康状態を引きおこしてしまいます。たとえば、「心配で眠れない」とか「イライラして、考えがまとまらない」、「食欲がなくなくなる」とか、まさに心身が健康でなく、ひずんでしまうわけです。

このストレス状態が、逃げることもできずずっとつづくようであれば、それは耐えがたい健康障害といってよいでしょう。しかし、たとえば「心配で眠れない」「もう乗りこえられないのではないか」というストレスがつづいても一生懸命取り組むことで事態が改善して、ストレスを乗りこえることができたとしたならば、そのつらかったストレスは、「苦労したけれどがんばってよかった」という充実感・達成感・自己肯定感などによって置きかわり、不健康状態は、吹っとんでしまいます。

このような場合を考えてもわかるように、ストレスは、上手に乗りこえられれば(あるいは乗りこえられるようになるものであれば)、かならずしも不健康とは結びつかないのです。だから、人間は、ストレスから逃げてしまうよりもたたかうことを選ぶことが多いのだ。そして、「仕事をなしとげた」とか「疲れるけれど、生きがいがある」とか、人生の意義を感じることができるのです。

時間のストレスの緩和が病気を半減させる

しかし、現代の日本の社会は、ストレスを乗りこえる時間的な余裕、ストレスを乗りこえた達成感を味わう余裕のない状態であると言っていいでしょう。

つまり、「時間のストレス」の支配が、すべての「乗りこえ体験」(生身で感じる喜び) を奪っており、あるいは、その体験を貧しいものにしているのです。

そのなかで、人間関係のストレス、仕事のストレスなどが、いっそう心身にひずみを起こす耐えがたいものになっていきます。そして、さまざまな健康障害や病気を生む原因になるのです。

近年、「成人病」とか「生活習慣病」とか「心身症」など生活過程のなかの病気が増えているといわれるのは、この現代日本の社会のストレスと関係があるのです。

結論を先まわりしていうと、現代日本の「時間のストレス」が緩和すれば、すべての生活過程の病気は半減するのではないでしょうか。

そのためには、たとえば「規定の労働時間以上は、絶村に働かせない」というようなルールが全産業で実行されねばなりません。残る仕事は、もちろん人員増(その業務ができる人を教育し、配置して) によって補うことが必要です。

こんなふうに、日本にしっかりとしたルールが採用されるようになったら、数年のうちにあなたの高血圧症も、となりのあの人のアルコール依存症も、ずっと改善するであろう。そして、日本中の医療費も減るだろうし、痛院の職員のハード・ワークも当然軽減されるはずです。
しかし、それはまだ実現できる段階にありません。どこかの云業だけの努力でできるものでもない。日本の産業構造を変える政治的な課題でしょう。

現代のストレス病

これは、ひとつの例です。この方は、45歳。建設関係の営業マンです。この道、もう20年になる。がんばり屋で、かつては業績もあがり、自分でも営業は自分の天職だと思ったこともあります。
しかし、近年は、不動産は売りも買いも動かなくて、毎日がウツウツとした日々です。

部下には、「明るくがんばれ」と激励していますが「励ましてほしいのは自分だよ」と、あまり元気がない。

もともと、若いときから健診では血圧が高いといわれていました。自分の父親も高血圧の治療をうけていたから、遺伝だと放置していました。

30歳代には、疲れたとき、後頭部が痛くなったりして、医者にかかったら、最高血圧が179mmHGで、最低血圧が100mmHGだったなどということがぁりました。

医者からは、食事療法をすすめられた。それに「ストレス解消を上手にしなさい」と注意されました。37歳のときに、ギツクリ腰になって、1週間入院しました。そのときは、なにかしようにも動けないので、おとなしく安静にしていました。そのとき、病院で測った血圧は、毎日正常血圧でした。

医者からも、「あなたの血圧は、ストレス性だから、自分でストレスをコントロールしないと、年とって本当の高血圧になっちゃうよ」とアドバイスされていました。
しかし、血圧は、高い数値を自覚することはほとんどないので、日常生活にもどると今までと同じ生活に戻ってしまいます。
ちなみに便秘を解消するだけで血圧が下がってしまう人もいます。

調子が悪いと「血圧が高くなっているのかな?」と考えるが、いつの間にか忘れてしまうという繰り返しでした。
そして最近、ただ仕事がうまくいかないだけでなくて、気力・活力が落ちているようで、身体に自信もないので受診しまし。病院でいろいろ検査した結果、結局、身体的には高血圧症だけでした。
しかも、朝自宅で測るときは、決して高くないという不安定性高血圧だ。医者は「降圧剤を飲むよりも」といって軽い安定剤を処方してくれました。

その後は、たしかにあまり頭が重くなったり、痛くなったりすることもありませんでした。夜はよく眠れるので、アルコールの量も減りました。

この方のケースは典型的なストレス性疾患です。ストレス性疾患の成立には、3つの要因があります。

  1. ストレッサー
  2. 身体的条件(既往症による後遺、先天的体質・後天的に学習した体質など)
  3. ストレスに対する心構え(気質、性格、人生観など。さらに、緊張、孤立、不安などの社会関係のなかでの感情状態)

ストレスと過労

ストレスとは、ストレッサーによって引きおこされる生体内(心理的変化も含む) の変化です。それはプロセスであって、一瞬の変化(「ケガをした」ような) ものではありません。

人間の場合は逃避したり、逆に目的意識的にたたかったりして、その生体内のプロセスは複雑です。たとえば、ストレスに疲れたと自覚した人が、1日休んでハイキングに出かけました。
その結果、「ストレス解消」し、翌日はまたストレスに立ち向かうことができるというような場合、健康です。

ところが、「ストレス解消」をする時間もとれない、休めないような過剰なノルマがある、それで、イライラしている。イライラして酒もよくのむ、そのために、血圧があがるし、体重も増え、食事制限するように医師に言われたとします。
この人の高血圧、肥満はストレス性疾患である。ゆっくりと休養をとらせることで、血圧は正常値にもどります。

また、やはり休めない、責任もある、いろいろ先のことを考えたり、仕事の段どりを思ったりして夜眠れない。朝、ムカムカして食欲がない、たまに休みをとっても、ぐったりしているだけで遊びにいく気力もわかない。
こんな場合は、過労(神経疲労の持続)です。
こういう場合は、ダラダラと休んでいてもだめであってよく眠れるようにすること、ハイキングなど、身体を動かすなどの対策が必要です。

この過労状態が放置されて長びくと、病的な状態(自律神経失調症など) に進行してしまいます。ストレスと過労の関係は複雑ですが、ストレスはストレッサーによる生体反応の過程であり、過労というのは、その過程の結果として引きおこされる自律神経系を中心とする神経機能の変化(とくに機能の低下)です。

現代のストレス「時間」

現在は、ストレスは? というと「人間関係」と答える人が多くいらっしゃいます。または「仕事」とか「子どもの教育」とかいう人も少なくない。
これらの「人間関係」「仕事」「子どもの教育」などは、人間の歴史のなかでいつも苦労でありストレスなのです。いまに始まったことでないストレスが、現在、私たちに「ストレス!!」とのしかかってくるように思うのは、昔とちがう、それこそ現代のストレスの親玉ともいうべきストレスが、別に存在するからです。

時間

時間は、昔はまったくストレスではなかったのだろうと思います。なぜなら人間は自然の時間の流れのなかで無理なく生活していたからです。

日が暮れれば眠り、目が昇れば働いた時代には、日が暮れるのに逆らって「今日中にやってしまわねばならない」と考えるのではなく、「日が沈んだら明日にしよう」と考えました。
しかし、富の蓄積による差別がおこる時代になると、夜なべ仕事で生産を強制されることも起こつてきた。つまり、何時までにどれだけ生産せよという、時間で区切った労働の強制です。そこでは、迫りくる締切り時間は、働く人にとってすごいストレスになってきたのでしょう。

しかし、それでも基本的には自然の時間が支配した時代は、牧歌的でした。人間関係もゆったりしたものでした。仕事も、苦役ではありましたが、たっぷりと休憩時間と睡眠時間で補われました。

子どもの教育などももっと余裕がありました。

しかし、産業革命後変化が起こりました。機械は24時間動かすことができる。灯は、24時間照らすことができる。商品をつくり広い地域に売りさばくために、まず出荷の日時をより早くするように競争するようになりました。

労働者は、工場のなかにいるかぎり、自然時間の流れに関係なく、機械の能力にあわせて労働することが強制された。このときから、「時間」は、人間の自然の生理と関係なく、産業のスケジュールに従ってすすむようになってしまいました。

産業革命当時、ヨーロッパでは、多くの労働者や子どもが病気となり死亡しました。日本における産業革命においても「女工哀史」に象徴されるような、多くの労働者の犠牲がありました。

当時の公衆衛生のレベルから、疾病の多くは、感染症や栄養失調でした。これらは、その後大きく改善した。それは、労働環境や生活環境の改善によるところも多大ですが、一方では労働時間の制限や子どもの就労禁止など、労働条件の改善も大きな役割がありました。つまり、就業時間を明確にして、私生活における休養の時間を十分に保障するということが、健康推持のために欠かすことのできないことなのです。

この意味で、労働基準法の8時間労働制などの原則は、労働者のストレス解消の基本的条件として重要なのです。しかし、産業革命後の産業の労働者管理は、あくまでも生産性をあげるための時間管理に主点が置かれています。単位時間内のノルマをアップすること、カンパン方式などにみる物品の流れを優先したスケジュールを組むとか、人間はまさに生産工程に付属する歯車のように使われます。

ここでは、労働者の私生活や家庭はまったく考慮されていません。現代日本で、自然時間から遊離した、生産性優先の時間管理による「時計時間」が、今、人間にとっての最大のストレスとして、私たちを襲っているのではないかと考えられます。

この「時計時間」が、人間の生活を支配することについては、もう逆もどりはできないでしょう。もっとゆっくりとした時間のスケジュールで生活を動かしていくことはむずかしいことかもしれません。しかし、就労時間をきっちりと切り、休養・睡眠の時間をきっちり保障することによって、この「時間」のストレスを軽減することはできるはずです。
そのようにして、資本家が支配する「時間」が、労働者の24時間を支配することが防げれば、子どもとの会話も家庭の団欒も回復し、多くの人々が嘆く、さまざまなストレスもいちじるしく軽減するにちがいないと考えられます。

過労

さて、この現代の「時間」のストレスは、労働医学の分野では、「長時間・超過密労働による健康破壊」というテーマで論じられているわけです。

「過労死」も「時間」のストレスの結果としての過労によっておこるものと考えてよいでしょう。ところが精神医学ないしは精神保健の分野でも、現代のストレス論は盛んなのですが、この「時間」のストレスはまったくといっていいほど、研究の対象になっていません。

精神の分野では、「過労」という言葉もほとんど現われることのない言葉であるが、現代の労働者に強制されている長時間・過密労働の問題も、「働きすぎる 型人間」として性格の問題に裏返しされて表現されるだけです。
これには、アメリカ心理学の影響が大きい。アメリカ生まれの「人間関係論」その他のプラグマティズムが、まったく主体的に吟味なく導入されて、さまざまな症例の説明につかわれています。
そこでは、患者の客観的な生活の様子や歴史が、人間関係のみで解釈されてしまいます。どんなにきつい労働で心身が疲労し、乗りこえるべきストレスに、どう対応したか、あるいはできなかったかが吟味されるよりも、夫婦仲が悪くなってセックスがどうであったかなどという現象がおもな話になってしまうのです。

「過労」の問題や「ストレスとしての時間」の問題から離れてしまうと、生身の人間の心身を両方とも統一してとらえることができず、いわゆる心理学主義になってしまうのです。

心身医学の本を読むと、気になる傾向として、この心理学主義がある。内科的な検査で、データ上異常がないと、そこに存在する自律神経症状なども心理学的に説明されてしまいます。しかし、事実の問題として「データ1 に異常ないが、あなたは疲れている」「あなたの生活は忙しすぎるから神経が疲れている」という問題である場合も多いはずです。したがって、精神療法よりも、十分な休養、適切な気分転換などを指導することの方が有効な場合も多いはずです。

急増しているストレスシンドローム
https://jiritsu-guide.com/2013/06/06/%E6%80%A5%E5%A2%97%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A0/

人間にとってのストレス

常識語ともなった「ストレス」は、人間にとって、どんな意味あいをもっているのでしょううか。とりあえず、不快な症状の原因にまず「ストレス」が大きな原因としてあげられるようになりました。

ストレッサーを回避できない

まず第一に、セリエのストレスに関する理論は、ラットという動物に対して一方的にすとレッサーを与え、その結果としての身体的変化を観察することによって導きだされました。

ネズミはストレッサーを回避もできないし、またたたかうこともできない条件です。
ラットは抵抗できず、受身的に自分の身体への侵襲をうけいれざるをえないのです。実験上、単純であり理論化しやすかったと思われるが、どうもこのラットのおかげで、ストレスというと、仕方ないもの、降参するか逃げるか仕方ないものという印象を、人間の場合にも引きずっているのではないかと思えます。

ストレスを逆に成長のバネにする

第二に、私たちの日常生活から発想できることでありますが、人間の場合は、ストレスのあり方もさらに対処の仕方ももっと複雑です。それどころか、人間は、ストレスを上手につかって自らを成長させているのです。

ラットの場合は、そのストレスは臓器の変化として観察されたけれども、人間の場合はそれ以外の感情表現で観察されることの方が多いでしょう。その感情表現は多様である。だから、人間の場合は、セリエが警告反応期、抵抗期、 疲憊期というようなパターンでは説明できないことの方が多いのです。
もし、人間でセリエの理論上の図式が実証されるとしたら、それは相当感情表現を抑制して、肉体的にも拘束した環境のなかでしかありえないのではないでしょうか。

自分の感情表現を抑制し、自らを従順に振るまうよう抑圧しているような場合の人に、胃・十二指腸潰瘍や高血圧などの「心身症」が多いのは事実であり、人間は、ストレスを感じると、まず感情表現をします。
そして、他人に同情、共感を求め、また助けを得たいと思う。また、最悪の場合は逃げだしてしまいます。

こういう多様な行動によって、ストレスに対応できるのが人間であるから、必然的に、ストレスの問題は、生理学的な研究をこえて社会心理学的な研究に似つかわしくなってしまうのです。

とはいっても、社会心理学的にきわめて複雑な人間行動を引きおこす人間のストレスではあるが、この間題を社会心理学だけで説明してしまおうとすることは間違いです。

人間の行動 は、社会心理学的であるが、その行動する生身の人間の健康は、ひとりひとり、生理学的変化のなかにあるのです。

たとえば、あるシステム・エンジニアのチームに、自分たちの責任あるシステムでトラブルが発生した。そのときにリーダーを中心にメンバーがそれぞれの分担をし、それぞれの役割を補いながら、集中し、あるときはどなりあい、あるときはやさしく激励しあって数日の作業を終えます。こんなときのグループ・ダイナミクスは社会心理学的に興味のあるところだし、「どうこのストレスを乗りこえたか」とそれぞれが述べあうこともおもしろいかもしれません。

ところが、私は、ちがった視点からみてぬなsy。「彼らは、何時間眠らなかったか。彼らには、どのようなプレッシャーがかかっていたのか。援助体制はあったか。彼らひとりひとりの体質は同じでないけれども、それは配慮されたか?などということをみます。
これは、一人ひとりの労働者の健康をみつめる視点です。だから、人間のストレスを考えるとき、その社会心理学的な面からと、ひとりひとりの生理学的面からの両面からの統一的アプローチが必要なのです。

人間はストレスを避けない

第三に、人間は、ストレスを避けないし、むしろ好むという傾向があるということも、セリエの理論だけで説明できないことです。
エベレストに登る登山家は、「なぜ、そんな苦労して山に登るのか」と聞かれて、「そこに山があるから」と答えたという話は有名ですが、スポーツや探検、冒険など、人間は、おおいなるストレスを求めて行動しています。
そして、長年の克己、避けがたい危険、私生活の面のさまざまな犠牲をはらって、一瞬の達成感のために、人間はがんばるのです。

このがんばりの積みかさねが、人類の発展史を満たしているのだと、理解しています。ストレスと過労人間は、ストレスというものを避けなかった。むしろストレスを乗りこえることに快感を感じることなのです。自ら、目標をつくり(大学受験、資格の取得、出世・昇進、記録の達成など)、目的達成のために必要な課題をこなし、「不眠・不休で」「死んだ気になって」がんばるわけです。

目標の達成をめざしてがんばっているときは、まさに大きなストレス下にあるわけですが、苦労を苦労と感じないし、むしろ精神的には生きいきとすらしているのです。

そして、実際に目標が達成されれば、精神的な満足感で、ストレスによる疲れもふっとんでしまうという体験をするのです。
人間は、ストレスをたんに受身に受けとるのではなく、むしろそれにチャレンジして、より高いレベルに成長するというとらえ方をしてきたのです。

ストレスという言葉は、もちろん使われず、課題とか挑戦とか闘争とか呼んできたのです。ストレスを苦痛、いやなものとして実感することが多くなったのは、やはり現代の資本主義的産業社会になってからです。

この産業社会にあっては、人々には地域社会や身分にしばりつけることなく、たくさんの可能性とチャンスが生まれたけれども、成功しないで生活を破綻させてしまうという危険性をもあわせもっています。
だから、人々は人一倍がんばらねばならないのです。しかし、かつてのように「がんばれば、いままでよりはよくなる」とかならずしもいえません。
つまり、ストレスを挑戦的に乗りこえようとしても、その結果、かならずしも達成感や充足感が体験できるとは限らなくなっているのです。

このようにストレスが、乗りこえて成果をうる課題でなくなったとき、そのストレスは抑圧となり苦痛となります。人間にとってストレスは、決して苦痛なことばかりとはいえず、むしろそれを乗りこえることによって個人も成長し、時代も発展するという積極的な一面ももつものでした。

ところが現代の産業社会の究極ともいうべき超過密・長時間労働の日本においては、ストレスは、セリエの動物実験のレベルではないけれども、セリエのいうような生体侵襲的に人間に作用しているのではないかと、考えさせられます。

たとえば、アメリカで社会心理学的に提唱され、現代のストレスについて問題を投げかけた「バーンアウト(もえつき) 症候群」なども、セリエの「警告反応期」「抵抗期」「 疲憊期」の三段階の説が、人間に適応できると考えられます。

いずれにせよ、セリエ学説は、現代の科学を先がける思潮の1つでした。人間というきわめて複雑な生命存在の多くが「もえつき」「過労死」「家庭崩壊」などの形で、つぶされていくのを見るとき、もっと深く広く検討されねばならないものになっているのでしょう?

ストレスとは

「ストレスだなぁ!」「ストレスで辛い」という言葉は、現代社会にはふさわしい言葉といえます。江戸時代の人々にもストレスがなかったわけではないだろうけれども、もっと時間がゆったりとしていました。

現代のように、ものごとが時間どおり正確に行われなければならなくなってから、人間は「ストレス」を感じるようになってしまいました。

ハンス・セリエがストレス学説を打ちだしたのは1940年代後半ですが、世界中が近代科学の発展とともに、あらゆる生活場面で自動機械化、スピードアップ、大量生産が帽をきかせるようになり、自然のリズムとともに生活するなんてことが困難な、人工的な環境につつまれるようになりました。

セリエのストレス学説は、私たちのこの新しい世界の生活様式におけるひずみを説明するのに、格好のものとなりました。それと同時に、「ストレス」というと、なにか不快な、困ったものという印象も強く、人々は敬遠できればそうしたいと願うようなものと思っているようです。

本当は、ストレスにはストレスの効用とでもいってよい素晴らしい役割があるのですが、「ストレス」という言葉についてまわるこのマイナス・イメージはセリエの学説そのものからきているのかもしれないと思われます。

セリエのストレス学説

20世紀前半は、まさに生物学、医学の新しい発見、新しい概念の誕生のめざましい時期でした。セリエも新しい発見をすべく生化学教室で性ホルモンの研究に熱中していました。
ところが、彼が発見したのは、新しいホルモンなどの物質ではありませんでした。ラットの身体に与えられるさまざまな刺激(非特異的な因子) によって、1つの同じような変化がおこるという現象でした。
つまり、薬理作用のちがう薬物や、寒さや過度の運動など、その刺激はまちまちであっても、結果としてはラットの身体に共通する変化をひき起こすことを発見したのです。

もちろん、このような事実は、昔から知られていたことではありますが、実証的研究が定着しつつあったこの科学の時代になって、セリエが動物実験によって実証したことに意味がありました。
そして、そのような刺激をうけたときの生体の変化を、物理学の用語をつかって「ストレス」と命名したところに、時代にフィットするところがあったのです

ストレスというのは、もともとは、物理学の分野で、外力に村する物質のゆがみという意味でした。

たとえば、ゴムボールを指で押したとする。強くおせば、ボールは凹み、形はゆがむ。強く強く押すとボールはゆがんで変化する。指でなく棒で押せばボールは結局耐えられずにやぶれてしまいます。つまりボールでなくなるります。これがストレスであり、指や棒をストレッサーといいます。

セリエは、これを生物学に応用したのです。そして、セリエのいうとおり、動物(セリエのときはラットであったが) に対するストレッサーは、薬物などでない、恐怖、不安、痛みなどの体験(人間でいえば感情体験である) でもよいという事実から、このストレス学説は、医学、生理学の枠をこえて、心理学、社会学へと広がり、そして今や一般の常識語とすらなったのである。
なったのです。