こういうように責められて育っている人は、心の底に憎しみの感情が堆積しているのは当然です。だからこういう人は人が好きではありません。会話も下手ですし。相手が不機嫌になることが怖いから気楽にものが言えないのです。
「ケーキ食べる?」と聞かれたら、「ワー、嬉しい」と答えなければ親から激怒されます。「ワー、嬉しい」という心の反応が親は嬉しいわけです。これが親が子供に甘えているということです。
そして甘えられない時に親は怒ります。親は自分の甘えの気持ちが傷つくと怒りだします。
そうした体験を積み重ねていれば、何を言う時も、相手の気持ちを傷つけないように、気を使うようになるのは当然です。しかし、これでは会話は成り立ちません。そういう人は大人になっても、いつも何となく人が怖いのです。
コミュニケーションができるとは、本当は食べたくない時に、「食べたくない」と言えることです。世の中には、「オギャー」と生まれた時から責められて育っているような人もいます。そういう人は、人が責めていなくても、責められていると感じてしまうように育ってもおかしくないのです。
被害妄想という言葉にならっていえば、それはまさに「被害妄想」です。「オギャー」という声が「怖い、怖い」という声のように、生まれた時から怖いと感じている人もいます。
そして、その人が30年、40年、50年とたてば、生きることに疲れるのは当たり前です。家の中にガソリンがあります。家の前で誰かがたき火をすれば誰でもビクッとします。被害妄想のある人は、心の中にガソリンがあるようなものです。
誰かが何かを言えばビクッとします。小さい頃、周囲の人から甘えられた人は、心の底に憎しみを持っています。自分が幼児的願望を持っているのに、他人の幼児的願望を満たす役割を背負わされてしまった人は悲惨です。これは心理的にはまさに地獄です。