孤独な決断 をする

孤独な決断 をするのは、愛に恵まれた者が、愛に恵まれない者を裁くことが許されるのでしょうかか?心理的に病んでいる人には、心理的に病んでしまう理由があって心理的に病んでいるのです。

誰も好きこのんで心理的に病んでいるのではありません。心理的に痛んでいる人も、避けようのない運命のもとに苦しんでいるのです。

誰だつて「母なるもの」を持ったやさしい母親の元に生まれ、可愛がられて成長したいのです。心理的にも、経済的にも豊かな環境の中で成長したいのです。

しかし人は残念ながら自分の運命を選択できません。与えられた運命を生きるしかないのです。

したがつて、不幸な過去から抜け出し、「いまを生きる」ための唯一の方法は決断である。先に述べたように、「人生とはこういうものであったか、人間とはこういうものであったか」と学び、そして「ならば私はいまからはこう生きよう」という決断である。それは孤独な決断です。

アメリカが2003年にイラクとの戟争に突入していく時に、アメリカのテレビは、「ブッシュ大統領の孤独な決断」と言いました。

CNN テレビは、記者会見を終えてお付きもなく、たった1人で赤い絨毯を歩いて去っていくブッシュ大統領の背中を移していました。

たしかにその後ろ姿には華やかさはなく、透けるような孤独がにじみ出ていました。

たしかにアメリカ大統領の決断は、多くの人の生死を決める孤独な決断でしょう。

おそらくリーダーには、誰でも多かれ少なかれそのような決断があるはずです。

しかし、孤独な決断をしなければならないのは、何もリーダーに限りません。リーダーとはまったく異質であるが、「母なるもの」を持たない母親の元に生まれた人もまた、孤独な決断をしなければなりません。

それは生きる能力を奪われた者の「それでもなお、生きるための決断」です。生きる力は本来他者から与えられるものです。

その生きるエネルギーを与えられていない者の、「それでもなお、生きるための決断」です。それは恐ろしいほどの孤独な決断です。

本来絶望と恨みの中で死んでいくのが人間の心理として当たり前の者が、「それでもなお、生きるための決断」をするのです。

過去を気にしない

 

私は神の子?

孤独な決断」とは、不幸になる宿命を担った者の「それでもなお、幸せに生きるための決断」です。

おそらくその決断をする時に、「私は神の子だ」というような啓示があるに違いありません。

それはほとんど人間には不可能と思われる決断だからです。決断をする力のない者がする決断だからです。

現在の学問が証明するところからすれば、あるタイプの脳を持った者が、ある特徴を持った家族の中に生まれたら、絶村に幸せにはなれないでしょう。

具体的にいえば、抑制型の人、つまり左脳に比べて右脳が活発で、反応しやすい扁桃核を持ち、副交感神経に比べて交感神経が活発な人が、ボールピーの言う「親子の役割逆転」をした家庭で成長したら絶対に幸せにはなれないでしょう。

生まれてから死ぬまで間違いなくずずっと不幸です。しかし、「それにもかかわらず」幸せになるという決断です。

マズローが、自己実現している人は、「それにもかかわらず」という考え方をする共通性があるといいます。

研究が盛んなアメリカにおいても、なお無宗教者は13% です。

したがって、「それでもなお、幸せになるための決断」はほとんど宗教的な体験なのです。だから、その時に「私は神の子だ」と感じてもそれは狂気の世界の出来事ではありません。

まさに現実の世界の出来事なのです。「母なるもの」を持った母親の元に生まれ、かつ非抑制型の脳を持った人には想像もできない壮絶な決断です。

淋しい決断です。孤独を越えた孤独な決断です。いま幸せな人は、過去のどこかで幸せになる決断をしているはずです。

肉体的に説明すれば、出血多量でも「なお死なないでいるような決断」です。心理的に病んでいる人は、不幸な過去から抜け出すための「その決断」ができないでいるのです。

不幸な人の思考は悪循環する

嘆いている人は、過去ばかりでなくとにかく現実を見たくないのです。そして事実・現実を見ません。

たとえば粉塵がすごい。ガンになるかもしれない。その時に、「昔はもっと酷かった」とか、「昔は良かった」と言っているのです。そう言っているだけで引っ越しの準備はしません。

そのためのエネルギーはありません。過去にこだわるのはいまの苦しみを楽にするためです。

そして逆にいまが苦しいから過去を抜け出せないのです。人はいまが不幸だから過去に捕らわれて生きてしまうのです。

過去に捕らわれて生きるから、いまを生きられないのでしょう。いまを生きられないからいまが不幸になるのです。悪循環です。

不幸な人はどうしても、残したことに執着してしまいます。やり残したことに執着するからいまが不幸です。

いまが不幸だから、やり残したことに執着するという悪循環です。

それを、心理的に健康な人は。自分のいまの環境を嘆き過去にこだわっている人に、「何でいつまでも過去にこだわっているのか? 」と疑問を投げかけます。「過去は嘆いても変わらない」と言うでしょう。

そして「いまを生きよ」と言います。心理的に健康な人はいまが幸せだから、不幸な過去から抜け出せます。

心理的に健康な人はいまが幸せだからいまを生きられるし、いまを生きられるからいまが幸せになります。好循環です。

心理的に痛んでいる人はいまが不幸だから、いつまでも不幸な過去にこだわります。不幸な過去からどうしても抜け出せないのです。

自分はいまが幸せであり、嘆いている相手はいまが不幸だという、その違いを考えないで、過去にこだわって生きている人を責めるのは酷です。前に進めない人を責めるのは酷です。