「孤独な決断」とは、不幸になる宿命を担った者の「それでもなお、幸せに生きるための決断」です。
おそらくその決断をする時に、「私は神の子だ」というような啓示があるに違いありません。
それはほとんど人間には不可能と思われる決断だからです。決断をする力のない者がする決断だからです。
現在の学問が証明するところからすれば、あるタイプの脳を持った者が、ある特徴を持った家族の中に生まれたら、絶村に幸せにはなれないでしょう。
具体的にいえば、抑制型の人、つまり左脳に比べて右脳が活発で、反応しやすい扁桃核を持ち、副交感神経に比べて交感神経が活発な人が、ボールピーの言う「親子の役割逆転」をした家庭で成長したら絶対に幸せにはなれないでしょう。
生まれてから死ぬまで間違いなくずずっと不幸です。しかし、「それにもかかわらず」幸せになるという決断です。
マズローが、自己実現している人は、「それにもかかわらず」という考え方をする共通性があるといいます。
研究が盛んなアメリカにおいても、なお無宗教者は13% です。
したがって、「それでもなお、幸せになるための決断」はほとんど宗教的な体験なのです。だから、その時に「私は神の子だ」と感じてもそれは狂気の世界の出来事ではありません。
まさに現実の世界の出来事なのです。「母なるもの」を持った母親の元に生まれ、かつ非抑制型の脳を持った人には想像もできない壮絶な決断です。
淋しい決断です。孤独を越えた孤独な決断です。いま幸せな人は、過去のどこかで幸せになる決断をしているはずです。
肉体的に説明すれば、出血多量でも「なお死なないでいるような決断」です。心理的に病んでいる人は、不幸な過去から抜け出すための「その決断」ができないでいるのです。