過労の2パターン「筋肉疲労・肉体疲労」「神経疲労」

日常的に私たちが経験する疲労には2種類あります。

1.筋肉疲労・肉体疲労

ひとつめは「筋肉疲労」とか「肉体疲労」とかいわれているものです。たとえば、日曜日に家族でハイキングに行ったとき場合です。
山頂でお弁当を食べて、夕方家に帰ったときは、もうクタクタです。久しぶりに歩いたので足の筋肉痛です。ビールを飲んで眠れば、最高の気分でしょう。

つまり、「筋肉疲労」は、気分的には最高の気分、あるいは最高とまではいかなくても、気分はいいのです。いわゆる「神経が疲れた」という不快感がないのが特徴ですそ

れは、ハイキングのような好きなことでなくても同様です。畑仕事でも、庭の手入れであっても、あるいはドブの掃除であってもいいのです。

基本的に、身体の労働と心の労働が一致しているような仕事です。なにかの目的意識をもって身体全体を動かして、ある物事をなしとげる、そういう労働のあとの疲労は、基本的にこの筋肉疲労です。

全身をつかって全身が疲れ、頭脳の方は「成しとげた」という充実感などが残り、全体として快い休養を求めます。このような労働による疲労と休養の練りかえしが、人類の長い歴史のなかの生活であったのだろうと考えられるます。

大昔は、「神経疲労」などというものは存在しなかったのではないでしょうか。1日中身体はまんべんなく使われ、頭脳はいつも目的意識をとぎすますために使われ、身体の働きと心の動きは一致していたのでしょう。

2.神経疲労

ところが、身体は局所的にしか使わず、頭脳だけを使うような精神労働が誕生してから、いわゆる「神経疲労」が生まれたのでしょう。
「神経疲労」とは、身体の働きとは別に「気をつかう」「頭をつかう」「緊張する」などの精神労働に傾いた労働のなかで発生したのです。

そして、「神経疲労」は、「筋肉疲労」と比べていちじるしい違いがあります。それはきわめて不快感をともなうという点です。

「筋肉疲労」は、気持ちよく、いつの間にか睡眠に誘いこまれるというようなものです。その労働による身体の変化に満足感すら味わうことができるのです。

ところが、神経をつかったあとの「神経疲労」は、ぐったりとして、食事の用意をするのもいやで、人々の騒々しいのが気になってイライラしたり、ふとんに入っても眠れません。

つまり、快い休養へと導かれないのです。疲労しているのだから、休養に導かれるのが当然のプロセスですが、そうならないのです。
休養に導くためには別の手立てが必要になることもあります。たとえば、酒を飲むとか睡眠剤を飲むなどです。

「神経疲労」は、人間にとって不快なものです人間は、これまでの歴史のなかで「神経疲労」を自然に休養に導き、疲労を回復させる生理的なプロセスをもっていません。つまり、人類史上、新しい疲労なのです。

階級社会が成立する過程で、肉体労働と精神労働とに分裂がおこり、農民のように身体と心を統一的に働かせる労働者とは別に、机にすわって書いたり指示したり、考えたりする労働者も生まれたのです。

その頃から、多分、肩こりや偏頭痛や不眠症などの新しい病気が生まれたのではないかと考えられています。それは当時、新しい職業病の発生だったはずです。

産業革命後、さらには第二次世界大戟後の技術革新の大波のなかで、かつてのような重労働ではあったけれども心身統一的な労働がどんどん減り、肉体的には軽労働化が進み、反比例するように作業のスピード・アップ、個人責任の強化、目と指の限局された作業など、神経を極端に酷使する(筋肉のように、痛みやだるさなどの疲労サインを出さない神経の特徴のため) 作業が増えてきたのです。

そして、いまや仕事といえば、「仕事が終わって気持ちがいい」などという言葉は聞くことはできない。「ああ、やっと終わった。もうなにもする気がしない」などという不快な倦怠感の残るものとなってしまったのです。

私たちは、ここで、疲労には2つのパターンがあって、人を幸せな感じにするような筋肉疲労はどんどん減っていき、不快感の強い神経疲労を体験することが多くなっている、この時代の特徴をおさえておく必要があります。

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過剰なストレス下での過労

超過密・長時間労働、長時間通勤などの「時間」のストレスが強くなり、休息・休養・睡眠などの疲労回復の条件が圧縮されることによって、人々の心身に過労が蓄積します。
つまり、過労になる。ストレスそのものは、変化するプロセスです。

高血圧傾向があればストレスによって血圧は上がり、ストレスがなくなれば血圧は下がるのである。ところが、そのストレス状態がつづけば、血圧が高くなるだけにとどまりません、

血圧はもともと少々の緊張でも上昇します。大きなストレスがかかれば上昇するのは当たり前です。

その他の交感神経症状も出てくる。たとえば頚重、顧がぼーっとする、仕事を指げだしたくなるなどである。これらは、血圧が上がりっ放しということもふくめて、ストレス状態が長くつづいているという過程の結果としての疲労です。

疲労は、結果であって、それは休息によって回復する機会が与えられないと、心身の故障を残してしまいます。

過労の意味

だいたい疲労という言葉は、「休めばなおるよ」という程度のときに使われるます。ところが、休息や休養を十分とれないくらいに過密に長時間働いていると、疲労は回復せず、蓄積して過労という状態になるのです。
だから、過労というのは、「ハイ、どうぞ休みなさい」といわれても、簡単には回復しない状態なのです。

しかし、それでも特別な手立てをとれば、過労も解消することは可能です。

たとえば、あるシステム・エンジニアが、かなり大きい仕事を引きうけている。当初は楽しくやっていたが、納期が近づいてくる。焦るけれど、思うようにできません。疲れて頭が働かないので眠ろうとするのだけれど、眠れない(疲労回復の休養がとれない) 状態がつづいて、とうとうギブアップしてしまいました。

これは疲労困債の状態です。これも過労という範疇でとらえます。

上司は、医者から睡眠剤をもらって1週間休めと指示をした。幸いにも、彼は、その指示に従って、コンコンと眠って1週間ぐらいで回復しました。

つまり過労状態も、このように一過性で、かつ思いきった対策できちんと回復するということもあるのですが、多くの場合、そううまくいきません。

過労の状態がつづくにもかかわらず、休養の機会が与えられず、結果的には長く療養しなければならないような病的な状態に至ることがあります。それが、現在、多くみられる「過労性疾患としての「自律神経失調症」です。

「心身症」と「自律神経失調症」の異なる点 | 自律神経失調症の基礎知識
https://jiritsu-guide.com/2013/05/23/%E3%80%8C%E5%BF%83%E8%BA%AB%E7%97%87%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E8%87%AA%E5%BE%8B%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E7%97%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%95%B0%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%82%B9/

過労性疾患としての自律神経失調症

自律神経失調の症状は、ストレス下ではいくらでも出現する症状です。たとえば徹夜を一晩すれば翌日は自律神経症状で悩まされるのはふつうです。
だから、このような徹夜のあとも、(一時的ではあるが)自律神経失調症といえなくもないでしょう。

このような日常的に体験する自律神経失調症状から類推して「自律神経失調症」を、「たいしたことのない病気」「気のもちよう」「休めばなおる」「そんな症状に負けるのは、精神が弱いのだ」などと、病気として扱われないことも多くあります。

たしかにたいしたことのない場合もあるし、気にしないでもいい程度の場合もあります。それは、なれない肉体労働をやって一時的に肩が凝ってしまったり、腰の筋肉痛を起こしたりするのと同じです。
しかし過労の結果、本格的に治療しなければ治らない、あるいはどんなにしても100%%元にもどらないのではないかと思われるような「自律神経失調症」は存在するのです。

ストレスに対する構え方

ストレッサーは、生身の人間を襲います。それを受けとめる側の身体的条件、体質の問題も大事なことは当然ですが、そのストレッサーを、しつかりと受けとめる心構えのあり方もとても重要です。

動物のストレッサーに対する行動のあり方は単純です。遺伝された反応パターンのいくつかのなかで行動します。ところが、人間は、生まれてからの長い子ども時代にさまざまな反応の学習を通じて、ひとりひとり独特な性格になります

Aさんは、「どうだい、君にこれはできますか?」と言われて課題を与えられると、「なにクソ!」とがんばる力がわきます。ところがBさんは「できそうにないな。やめときます」と引き下がります。
Cさんは、「むずかしそうだけど「断るのはみっともないな。人はなにをいうだろう」と遽巡しています。

もっといろいろなケースが考えられるし、もっとたくさんのケースがあります。、この3つの場合でも、ストレッサーから受ける影響にはそれぞれ違いがあります。

Aさんは、うまくいけば大きな達成感を味わい、成長する。Bさんは、ストレスもないかわりに充実感がありません。Cさんは、一番ストレスをためこみやすい。かつ満足感も少なく疲労しやすいでしょう。

また、別の場合にはこうなります。仕事が1つ終わったとき、Aさんは、「やった!終了した!。最終のチェックをして、ハイ、終わり」と、きれいにかたづけました。HBさんは、「一応終わったけれど、なんとなく心配だな。明日またたしかめてみよう」と、なんとなく気がかり。Cさんは、「これで、終わったけれど、途中でAさんがへんなことをいっていたな。なにか別の心配があるのかな」などと、振りかえり、なかなかけじめがつきません。Cさんが一番ストレスをためこみやすいといえるでしょう。

このように同じストレスであっても、それを受けとる人の構え方の問題は大きいのです。同じ労働条件のなかにあっても、それをどうこなすか。どんなに忙しくとも、要領よく休息のできる人と、もう心配になって先へ先へと考えて休息できない人と、これでは影響の受け方も違うのです。

とはいえ、現代の日本の超過密・長時間労働は、労働者の性格や心構えの個人差すら塗りつぶしてしまう勢いであることも否定できません。
サービス残業、フレックスタイム、あるいは長距離通勤など、客観的に労働者の休息時間がつくれなくなっていまする。新幹線通勤で、列車のなかで睡眠を確保しているという人がいるくらいです。個性的な休息の選択というには、あまりに貧しいのです。