ストレスを受ける側の身体的条件

ある人は高血圧だったが、同じような環境のなかにあっても、胃が痛くなる人もいれば、不眠症になる人、下痢をする人など、さまざまです。

たとえば、一生懸命とりくんだ1つの商談が成立直前になって、他社の割りこみによって難航してしまい、また交渉しなおしのなってしまったとします。
しかし、まったくだめになったわけではないのです。こんなとき、だれでもイライラしたり、憤ったり、あせったり、不安になったりするものです。

その人の性格や心構えとも関係するのですが、こんなときは、心身はものすごいストレス状態であることは、だれでも同じです。

ところがある人は、他社の割りこみに頭にきて興奮しています。しかし、「負けるものか!」と新しい作戦を考えます。

そのうちに血圧がぐんぐん上昇してしまいます。

また別の人であれば、頭にくるけれども、「それ以上にいい手を考えねばならない。ここまできていい手なんてあるだろうか?」と不安が先に立つ。食欲はなくなり、胃が痛いという症状がでてきます。

またある人は、「やっぱりだめかもしれない。そういえば、最初から悪い予感がしたんだ。あそこで手を打っておかなかったからなァ」などと悲観的になって、夜もクヨクヨ考えてしまいます。
朝、おなかの調子が悪くて、お腹を下してしまいます。

同じストレスでも体に及ぼす影響は人それぞれ

やや極端な比べ方をしましたが、このように同じストレスでも、そのとらえ方はとても個性的です。かつ、身体の受ける影響もさまざまです。

ストレスを受ける側の身体的条件は、子ども時代から現在までに学習し、身につけてきた身体の反応の仕方である。これを一応「体質」といいます。

「体質」とは、生まれつきのものでなく、生まれつきの素質を中心にしながらも、生育史のなかで学習して形成されるものです。

たとえば、高血圧になりやすい人は、親も高血圧でです。したがって高血圧になりやすい素質は遺伝されているのでしょうが、さらに子どものころの食生活のなかで学習した食習慣や、また、せかせかしているとか心配症などの行動パターンの学習とか、他の病気になりにくい体質とかが複合的に、現在の体質をつくっているのです。

体質は、変化するものです。高齢者になって高血圧症の人でも、20~30歳代の頃は低血圧症だつたという人は多いものです。若い間は、生活管理の仕方によって、かなり変化するけれども年をとると、若いときに比べると体質は固定的になってしまいます。

いわゆる成人病というのは、言葉をかえると体質の固定です。だから、ずっ生活管理を受けなければなりません。
あるいは一生薬物療法で管理する必要があるのえす。

そういう固定化した体質のうえに、急激なストレッサーが加わると、心筋梗塞とか脳卒中などの急性発症に至るのです。現代の日本では、ストレスはどの年齢層にとっても過酷です。

だがら、ストレッサーを軽減(子ども時代には適切に)していく社会運動(労働~市民運動)も大切ですが、一方では、自らの身体的条件をいつもよくしておく努力も意識的にしなければならないのdす。

よく「身体が資本」といいますが、健康な高齢者は、やはり成人痛などの有害な慢性疾患を背負いこんでいないのです。健康で老いるためには、成人期になってチェックされはじめる慢性疾患をできるだけコントロールしておくことです。

能力主義がストレスを最大に

近年、過労死といわれる労働のストレスと関連して起こる急性死をよく耳にするようになりました。こんなことは、かつて労働組合が「合理化」反対闘争にとりくんでいた頃は考えられなかったことなのです。
機械化・合理化によって時間内の労働が過密になり、能力主義によって労働者がひとりひとり分断されるようになって、労働者各自の責任と緊張は高まりました。
このような「合理化」・能力主義の下で、労働者の健康管理は軽視されるようになってしまったのです。

労働安全衛生法などによって健診活動などは広く行われるようになったが、また食事や運動などの個人生活指導はマニュアル化しているけれども、一方では、「時間のストレス」、つまり不規則・過密・長時間労働をバラバラに分断された労働者個人の責任で行わせるという方向が強まっています。

健診で異常所見があっても、それは個人の生活習慣の問題にされ、労働実態のなかでフォローすることができない場合が多いのです。
また、健診で異常がなかったから、どんな労働をしても大丈夫という免罪符につかわれている場合すらあるのではないかとさえ想います。

労働者は、もっと自分の症状(血圧などのデータの変化なども含めて) と労働生活との関係に関心をもつべきなのです。
もちろん、これまでにも述べてきたことであるが、ストレスはそれを乗りこえることで生きがいになるという側面をもっているのだから、ストレスそのものに対して過敏になってはいけません。

積極的にストレスに取り組むという姿勢も必要です。しかし、時間・光・音などの人工的なストレスは、ある限界をこえると有害です。
その限界を教えてくれるのが自分の症状です。自分の症状を神経質にではなく正確に知り、医師のアドバイスも受けながら、自らの健康管理に責任をもち、そしてそれをオープンにしていく勇気をもつべきでしょう。ひとりで「このままでは死んでしまう」と思っているのではとても体がもちません。

「このままではまいってしまう」ことを、同僚や家族に言うことが大切なのです。自分の体質が今まさに遭遇しているストレスに耐えられるかどうか、知らねばなりません。
そして、休養・休息・休暇を要求しなければなりません。このようにとらえると、自らの身体的条件を守る問題は、次の心理的問題、ストレスに対する心構えの問題とつながってくるのです。

ストレッサー

ストレッサーというのは、ストレスの素で心身にひずみをおこすすべての外的刺激といえます。まず、人間にとって最初のストレスは、気温、気圧などの自然現象でした。
さらに、外敵に対する恐怖、たたかうときの緊張なども大きなストレスでした。しかし、人間同士はストレスではありませんでした。

あくまでも、守りあう、助けあう仲間だったのです。人間の長い歴史のなかで、複雑な感情体験を経験するようになったけれども、人間関係の根本は、信じあい、愛しあう感情なです。

人間関係のなかに、打算や憎しみや恨み、競争、あるいは殺意などの感情が生まれたのは、人間の歴史のなかでは日が浅いのでしょう。

かく信じるのは、人間の子どもは全面的に大人を信じて生まれ、育っているという事実からです。これは、動物一般にいえることであって、同種の動物は決して憎みあわないのです。

発情期に雄同士の激しいたたかいもあるが、あれは種族をしっかりと残すための宿命的方法です。人間は、それを乗りこえられる動物であるはずですだ。

人間関係が本当に愛情深い関係に発展する可能性を信じている人がほとんどです。現代のような人間関係が最大のストレスのように立ちあらわれる時代は本当に人間関係が快く、豊かである未来社会の前の過渡期でなければならないと思っています。要するに、本来ストレスでありえなかった人間関係も、競争、憎しみなどのストレスになってきたということです。そして、いつの間にか、人間不信、性悪説などに裏うちされるような「人間として生きていることのつらさ」まで、私たちは感じるようになってしまったのです。

また、「生きていることすら、ストレスだ」という悲しい時代です。

時間、音、光のストレス

そして、さらに生活時間がせわしくなることによって、人間関係をゆっくりと修復させる余裕も、ゆっくりと自然とともに生活する余裕もなくなっています。
つまり、これが「時間のストレス」です。そして、さらに光や音、スピードなどの人工的機械的刺激も大きなストレスになってきています。
電気の発明によって、24時間行動することができ、人力よりも正確で効率的な働きをする機械によって、生産はスピード・アップしました。
機械は、騒音を発生し、人間の鼓膜が耐えられない音刺激を際限なく与えつづけてしまいます。
また、機械はあらゆる音を録音し、繰りかえし聞かせることが可能です。
この昔の再現可能性は、私たちのあらゆる生活場面に入りこんでいます。

この音のストレスは、光の刺激以上に人間に与えるストレスとして注目すべきです。というのは、光は、目をとじるとかカーテンをするとかで、まだ遮断することは可能であるが、音は遮断できない。

聴機能は、あらゆる音刺激のなかから自分に都合よく音を識別するように発達したものです。だから、開放系であり、すべての音が感知されるようになっています。

かつて人間は自然の音や、人間の発する音でも再現性のない音のなかで育ってきました。ところが、今や幼児にもテレビの音やCD の音楽が聞かされます。

若者が山を歩いていてもウォークマンを開いています。異常なことです。このようにして、人間の能力や計算力や疲れやすさを凌駕するこれらの機械によって、生産力を上げようとする企業論理は、人間の生理にまったくおかまいなく、私たちの生活時間をスピード・アップさせました。
こうして、時間は、ストレスとして私たちの前に立ちあらわれたのです。

ストレスは学習されていく

私たちは普段の生活のなかでのストレッサーは、1つや2つではありません。時間のストレスという大枠のなかで多様にからみあって、私たちをつねに刺激しつづけています。そのなかで私たちは生まれ、成長し、働き、そして老いていくのです。この人生は、ストレッサーとのたたかいと調和の積みかさねでもあるのです。

子どものときに、どんなストレッサーと遭遇し、それをどう乗りこえたかということが、その子の体内に学習されたものとして残ります。

心理的には性格の根として、身体的には体質としてです。子どもは、日々ストレッサーとの遭遇によって、その体験学習によって自分を形成していきます。

同じようなストレッサーであっても、4歳の幼児期と10歳の学童期では異なります。たとえば、親に手をあげられる体験1つでもその感じ方が違うだけでなく、あと後に残す影響は大きく違います。

子ども時代は、将来大人になったときの「生きる力」をつくるので、子どもの発達段階にふさわしいストレッサーと出会い、それを乗りこえるという体験が大切なのです。

たとえ、とても悲しい体験であっても、大人に守られて乗りこえていくことで、その子は成長できるのす。現代は、むしろ子ども時代に大切なストレッサーと出会わないように配慮されすぎて、ストレスに弱い大人になるというケースも多いでしょう。

ストレッサーは、時間の余裕のあるところで、その人の体質や性格(子どもの場合は発達段階を加えて) に適切な程度であるのが一番理想です。

「適切な」とは、どの程度でしょうか?。むずかしいことですが、「少し努力すれば乗りこえられる程度」といえると思います。それが、適切でなく強烈でかつ持続的につづく、あるいは、まったく非生理的で悪影響を与えるだけというようなストレッサーの場合、健康障害になってしまいます。

仕事上での多くのストレスは、緊張や不安が基底的なストレスで、さらに最近の不景気による悲観的な状況もストレスを強めているでしょう。

ストレスと病気

ストレスとは、心身におこる「ひずみ」のことですから、当然、心身の不健康状態を引きおこしてしまいます。たとえば、「心配で眠れない」とか「イライラして、考えがまとまらない」、「食欲がなくなくなる」とか、まさに心身が健康でなく、ひずんでしまうわけです。

このストレス状態が、逃げることもできずずっとつづくようであれば、それは耐えがたい健康障害といってよいでしょう。しかし、たとえば「心配で眠れない」「もう乗りこえられないのではないか」というストレスがつづいても一生懸命取り組むことで事態が改善して、ストレスを乗りこえることができたとしたならば、そのつらかったストレスは、「苦労したけれどがんばってよかった」という充実感・達成感・自己肯定感などによって置きかわり、不健康状態は、吹っとんでしまいます。

このような場合を考えてもわかるように、ストレスは、上手に乗りこえられれば(あるいは乗りこえられるようになるものであれば)、かならずしも不健康とは結びつかないのです。だから、人間は、ストレスから逃げてしまうよりもたたかうことを選ぶことが多いのだ。そして、「仕事をなしとげた」とか「疲れるけれど、生きがいがある」とか、人生の意義を感じることができるのです。

時間のストレスの緩和が病気を半減させる

しかし、現代の日本の社会は、ストレスを乗りこえる時間的な余裕、ストレスを乗りこえた達成感を味わう余裕のない状態であると言っていいでしょう。

つまり、「時間のストレス」の支配が、すべての「乗りこえ体験」(生身で感じる喜び) を奪っており、あるいは、その体験を貧しいものにしているのです。

そのなかで、人間関係のストレス、仕事のストレスなどが、いっそう心身にひずみを起こす耐えがたいものになっていきます。そして、さまざまな健康障害や病気を生む原因になるのです。

近年、「成人病」とか「生活習慣病」とか「心身症」など生活過程のなかの病気が増えているといわれるのは、この現代日本の社会のストレスと関係があるのです。

結論を先まわりしていうと、現代日本の「時間のストレス」が緩和すれば、すべての生活過程の病気は半減するのではないでしょうか。

そのためには、たとえば「規定の労働時間以上は、絶村に働かせない」というようなルールが全産業で実行されねばなりません。残る仕事は、もちろん人員増(その業務ができる人を教育し、配置して) によって補うことが必要です。

こんなふうに、日本にしっかりとしたルールが採用されるようになったら、数年のうちにあなたの高血圧症も、となりのあの人のアルコール依存症も、ずっと改善するであろう。そして、日本中の医療費も減るだろうし、痛院の職員のハード・ワークも当然軽減されるはずです。
しかし、それはまだ実現できる段階にありません。どこかの云業だけの努力でできるものでもない。日本の産業構造を変える政治的な課題でしょう。

現代のストレス病

これは、ひとつの例です。この方は、45歳。建設関係の営業マンです。この道、もう20年になる。がんばり屋で、かつては業績もあがり、自分でも営業は自分の天職だと思ったこともあります。
しかし、近年は、不動産は売りも買いも動かなくて、毎日がウツウツとした日々です。

部下には、「明るくがんばれ」と激励していますが「励ましてほしいのは自分だよ」と、あまり元気がない。

もともと、若いときから健診では血圧が高いといわれていました。自分の父親も高血圧の治療をうけていたから、遺伝だと放置していました。

30歳代には、疲れたとき、後頭部が痛くなったりして、医者にかかったら、最高血圧が179mmHGで、最低血圧が100mmHGだったなどということがぁりました。

医者からは、食事療法をすすめられた。それに「ストレス解消を上手にしなさい」と注意されました。37歳のときに、ギツクリ腰になって、1週間入院しました。そのときは、なにかしようにも動けないので、おとなしく安静にしていました。そのとき、病院で測った血圧は、毎日正常血圧でした。

医者からも、「あなたの血圧は、ストレス性だから、自分でストレスをコントロールしないと、年とって本当の高血圧になっちゃうよ」とアドバイスされていました。
しかし、血圧は、高い数値を自覚することはほとんどないので、日常生活にもどると今までと同じ生活に戻ってしまいます。
ちなみに便秘を解消するだけで血圧が下がってしまう人もいます。

調子が悪いと「血圧が高くなっているのかな?」と考えるが、いつの間にか忘れてしまうという繰り返しでした。
そして最近、ただ仕事がうまくいかないだけでなくて、気力・活力が落ちているようで、身体に自信もないので受診しまし。病院でいろいろ検査した結果、結局、身体的には高血圧症だけでした。
しかも、朝自宅で測るときは、決して高くないという不安定性高血圧だ。医者は「降圧剤を飲むよりも」といって軽い安定剤を処方してくれました。

その後は、たしかにあまり頭が重くなったり、痛くなったりすることもありませんでした。夜はよく眠れるので、アルコールの量も減りました。

この方のケースは典型的なストレス性疾患です。ストレス性疾患の成立には、3つの要因があります。

  1. ストレッサー
  2. 身体的条件(既往症による後遺、先天的体質・後天的に学習した体質など)
  3. ストレスに対する心構え(気質、性格、人生観など。さらに、緊張、孤立、不安などの社会関係のなかでの感情状態)