過剰なストレス下での過労

超過密・長時間労働、長時間通勤などの「時間」のストレスが強くなり、休息・休養・睡眠などの疲労回復の条件が圧縮されることによって、人々の心身に過労が蓄積します。
つまり、過労になる。ストレスそのものは、変化するプロセスです。

高血圧傾向があればストレスによって血圧は上がり、ストレスがなくなれば血圧は下がるのである。ところが、そのストレス状態がつづけば、血圧が高くなるだけにとどまりません、

血圧はもともと少々の緊張でも上昇します。大きなストレスがかかれば上昇するのは当たり前です。

その他の交感神経症状も出てくる。たとえば頚重、顧がぼーっとする、仕事を指げだしたくなるなどである。これらは、血圧が上がりっ放しということもふくめて、ストレス状態が長くつづいているという過程の結果としての疲労です。

疲労は、結果であって、それは休息によって回復する機会が与えられないと、心身の故障を残してしまいます。

過労の意味

だいたい疲労という言葉は、「休めばなおるよ」という程度のときに使われるます。ところが、休息や休養を十分とれないくらいに過密に長時間働いていると、疲労は回復せず、蓄積して過労という状態になるのです。
だから、過労というのは、「ハイ、どうぞ休みなさい」といわれても、簡単には回復しない状態なのです。

しかし、それでも特別な手立てをとれば、過労も解消することは可能です。

たとえば、あるシステム・エンジニアが、かなり大きい仕事を引きうけている。当初は楽しくやっていたが、納期が近づいてくる。焦るけれど、思うようにできません。疲れて頭が働かないので眠ろうとするのだけれど、眠れない(疲労回復の休養がとれない) 状態がつづいて、とうとうギブアップしてしまいました。

これは疲労困債の状態です。これも過労という範疇でとらえます。

上司は、医者から睡眠剤をもらって1週間休めと指示をした。幸いにも、彼は、その指示に従って、コンコンと眠って1週間ぐらいで回復しました。

つまり過労状態も、このように一過性で、かつ思いきった対策できちんと回復するということもあるのですが、多くの場合、そううまくいきません。

過労の状態がつづくにもかかわらず、休養の機会が与えられず、結果的には長く療養しなければならないような病的な状態に至ることがあります。それが、現在、多くみられる「過労性疾患としての「自律神経失調症」です。

「心身症」と「自律神経失調症」の異なる点 | 自律神経失調症の基礎知識
https://jiritsu-guide.com/2013/05/23/%E3%80%8C%E5%BF%83%E8%BA%AB%E7%97%87%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E8%87%AA%E5%BE%8B%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E5%A4%B1%E8%AA%BF%E7%97%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%95%B0%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%82%B9/

過労性疾患としての自律神経失調症

自律神経失調の症状は、ストレス下ではいくらでも出現する症状です。たとえば徹夜を一晩すれば翌日は自律神経症状で悩まされるのはふつうです。
だから、このような徹夜のあとも、(一時的ではあるが)自律神経失調症といえなくもないでしょう。

このような日常的に体験する自律神経失調症状から類推して「自律神経失調症」を、「たいしたことのない病気」「気のもちよう」「休めばなおる」「そんな症状に負けるのは、精神が弱いのだ」などと、病気として扱われないことも多くあります。

たしかにたいしたことのない場合もあるし、気にしないでもいい程度の場合もあります。それは、なれない肉体労働をやって一時的に肩が凝ってしまったり、腰の筋肉痛を起こしたりするのと同じです。
しかし過労の結果、本格的に治療しなければ治らない、あるいはどんなにしても100%%元にもどらないのではないかと思われるような「自律神経失調症」は存在するのです。

ストレスに対する構え方

ストレッサーは、生身の人間を襲います。それを受けとめる側の身体的条件、体質の問題も大事なことは当然ですが、そのストレッサーを、しつかりと受けとめる心構えのあり方もとても重要です。

動物のストレッサーに対する行動のあり方は単純です。遺伝された反応パターンのいくつかのなかで行動します。ところが、人間は、生まれてからの長い子ども時代にさまざまな反応の学習を通じて、ひとりひとり独特な性格になります

Aさんは、「どうだい、君にこれはできますか?」と言われて課題を与えられると、「なにクソ!」とがんばる力がわきます。ところがBさんは「できそうにないな。やめときます」と引き下がります。
Cさんは、「むずかしそうだけど「断るのはみっともないな。人はなにをいうだろう」と遽巡しています。

もっといろいろなケースが考えられるし、もっとたくさんのケースがあります。、この3つの場合でも、ストレッサーから受ける影響にはそれぞれ違いがあります。

Aさんは、うまくいけば大きな達成感を味わい、成長する。Bさんは、ストレスもないかわりに充実感がありません。Cさんは、一番ストレスをためこみやすい。かつ満足感も少なく疲労しやすいでしょう。

また、別の場合にはこうなります。仕事が1つ終わったとき、Aさんは、「やった!終了した!。最終のチェックをして、ハイ、終わり」と、きれいにかたづけました。HBさんは、「一応終わったけれど、なんとなく心配だな。明日またたしかめてみよう」と、なんとなく気がかり。Cさんは、「これで、終わったけれど、途中でAさんがへんなことをいっていたな。なにか別の心配があるのかな」などと、振りかえり、なかなかけじめがつきません。Cさんが一番ストレスをためこみやすいといえるでしょう。

このように同じストレスであっても、それを受けとる人の構え方の問題は大きいのです。同じ労働条件のなかにあっても、それをどうこなすか。どんなに忙しくとも、要領よく休息のできる人と、もう心配になって先へ先へと考えて休息できない人と、これでは影響の受け方も違うのです。

とはいえ、現代の日本の超過密・長時間労働は、労働者の性格や心構えの個人差すら塗りつぶしてしまう勢いであることも否定できません。
サービス残業、フレックスタイム、あるいは長距離通勤など、客観的に労働者の休息時間がつくれなくなっていまする。新幹線通勤で、列車のなかで睡眠を確保しているという人がいるくらいです。個性的な休息の選択というには、あまりに貧しいのです。

ストレスを受ける側の身体的条件

ある人は高血圧だったが、同じような環境のなかにあっても、胃が痛くなる人もいれば、不眠症になる人、下痢をする人など、さまざまです。

たとえば、一生懸命とりくんだ1つの商談が成立直前になって、他社の割りこみによって難航してしまい、また交渉しなおしのなってしまったとします。
しかし、まったくだめになったわけではないのです。こんなとき、だれでもイライラしたり、憤ったり、あせったり、不安になったりするものです。

その人の性格や心構えとも関係するのですが、こんなときは、心身はものすごいストレス状態であることは、だれでも同じです。

ところがある人は、他社の割りこみに頭にきて興奮しています。しかし、「負けるものか!」と新しい作戦を考えます。

そのうちに血圧がぐんぐん上昇してしまいます。

また別の人であれば、頭にくるけれども、「それ以上にいい手を考えねばならない。ここまできていい手なんてあるだろうか?」と不安が先に立つ。食欲はなくなり、胃が痛いという症状がでてきます。

またある人は、「やっぱりだめかもしれない。そういえば、最初から悪い予感がしたんだ。あそこで手を打っておかなかったからなァ」などと悲観的になって、夜もクヨクヨ考えてしまいます。
朝、おなかの調子が悪くて、お腹を下してしまいます。

同じストレスでも体に及ぼす影響は人それぞれ

やや極端な比べ方をしましたが、このように同じストレスでも、そのとらえ方はとても個性的です。かつ、身体の受ける影響もさまざまです。

ストレスを受ける側の身体的条件は、子ども時代から現在までに学習し、身につけてきた身体の反応の仕方である。これを一応「体質」といいます。

「体質」とは、生まれつきのものでなく、生まれつきの素質を中心にしながらも、生育史のなかで学習して形成されるものです。

たとえば、高血圧になりやすい人は、親も高血圧でです。したがって高血圧になりやすい素質は遺伝されているのでしょうが、さらに子どものころの食生活のなかで学習した食習慣や、また、せかせかしているとか心配症などの行動パターンの学習とか、他の病気になりにくい体質とかが複合的に、現在の体質をつくっているのです。

体質は、変化するものです。高齢者になって高血圧症の人でも、20~30歳代の頃は低血圧症だつたという人は多いものです。若い間は、生活管理の仕方によって、かなり変化するけれども年をとると、若いときに比べると体質は固定的になってしまいます。

いわゆる成人病というのは、言葉をかえると体質の固定です。だから、ずっ生活管理を受けなければなりません。
あるいは一生薬物療法で管理する必要があるのえす。

そういう固定化した体質のうえに、急激なストレッサーが加わると、心筋梗塞とか脳卒中などの急性発症に至るのです。現代の日本では、ストレスはどの年齢層にとっても過酷です。

だがら、ストレッサーを軽減(子ども時代には適切に)していく社会運動(労働~市民運動)も大切ですが、一方では、自らの身体的条件をいつもよくしておく努力も意識的にしなければならないのdす。

よく「身体が資本」といいますが、健康な高齢者は、やはり成人痛などの有害な慢性疾患を背負いこんでいないのです。健康で老いるためには、成人期になってチェックされはじめる慢性疾患をできるだけコントロールしておくことです。

能力主義がストレスを最大に

近年、過労死といわれる労働のストレスと関連して起こる急性死をよく耳にするようになりました。こんなことは、かつて労働組合が「合理化」反対闘争にとりくんでいた頃は考えられなかったことなのです。
機械化・合理化によって時間内の労働が過密になり、能力主義によって労働者がひとりひとり分断されるようになって、労働者各自の責任と緊張は高まりました。
このような「合理化」・能力主義の下で、労働者の健康管理は軽視されるようになってしまったのです。

労働安全衛生法などによって健診活動などは広く行われるようになったが、また食事や運動などの個人生活指導はマニュアル化しているけれども、一方では、「時間のストレス」、つまり不規則・過密・長時間労働をバラバラに分断された労働者個人の責任で行わせるという方向が強まっています。

健診で異常所見があっても、それは個人の生活習慣の問題にされ、労働実態のなかでフォローすることができない場合が多いのです。
また、健診で異常がなかったから、どんな労働をしても大丈夫という免罪符につかわれている場合すらあるのではないかとさえ想います。

労働者は、もっと自分の症状(血圧などのデータの変化なども含めて) と労働生活との関係に関心をもつべきなのです。
もちろん、これまでにも述べてきたことであるが、ストレスはそれを乗りこえることで生きがいになるという側面をもっているのだから、ストレスそのものに対して過敏になってはいけません。

積極的にストレスに取り組むという姿勢も必要です。しかし、時間・光・音などの人工的なストレスは、ある限界をこえると有害です。
その限界を教えてくれるのが自分の症状です。自分の症状を神経質にではなく正確に知り、医師のアドバイスも受けながら、自らの健康管理に責任をもち、そしてそれをオープンにしていく勇気をもつべきでしょう。ひとりで「このままでは死んでしまう」と思っているのではとても体がもちません。

「このままではまいってしまう」ことを、同僚や家族に言うことが大切なのです。自分の体質が今まさに遭遇しているストレスに耐えられるかどうか、知らねばなりません。
そして、休養・休息・休暇を要求しなければなりません。このようにとらえると、自らの身体的条件を守る問題は、次の心理的問題、ストレスに対する心構えの問題とつながってくるのです。