うつ病を生命力の低下と理解できないと、うつ病者に接する態度を間違えてしまいます。たとえば普通の人はうつ病になるような人に接すると「元気出せよ」となってしまいます。
罪責感に苦しみ、生命力の低下した人にこの種の言葉はきついものです。いよいよ生きる気力を失わせる。うつ病になるような人は生命力が低下しているから、何かを要求されることが辛いのです。
もう何十年も「元気を出さなければ」と義務感で「元気」を装ってきたのです。そうして気を張っているのが限界になったのです。気を張って生きることにあなたは疲れ果ててしまったのです。もう消耗し尽くしているのです。
生きるエネルギーはすでに枯渇しているのです。そこにさらに周囲の人から「元気出せよ」などと言われたら、いよいよ生きる気力がなくなるのは当然です。いよいよ死にたくなるのは当たり前です。
生命力の低下した人には、生命力の高揚した人の生活様式や価値観や言動はきついのです。だから生命力の豊かな人の善意の言動が、いよいよ生命力の低下した人を追い込んでしまうのです。
生命力の豊かな人は生命力の低下した人の心の傷に塩を塗るようなことをよくしてしまいます。
塩を塗って治ればいいのですが、実際には傷口を広げるだけで、治療効果がないばかりか、傷を悪化させてしまいます。
先に憎しみの説明の個所で「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と周囲の人が言っても、うつ病になるような人には意味がないとも言えます。このことについても同じです。
憎しみを持った人と同じことが、生命力の低下した人にもいえます。生命力の低下した人に、「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と言っても意味がありません。
生命力の豊かな人には、経済的に豊かな環境は意味がありますが、生命力の低下した人には経済的に豊かな環境は意味がないのです。
生命力の豊かな人は経済的に貧しくても幸せです。生命力の低下した人が経済的に豊かな時よりはるかに幸せです。
チャップリンの、「行動する力と想像力があれば少々のお金で十分だ」といった台詞を思い出します。
生命力の豊かな人は、まさに行動する力と想像力があります。これがあったらほんの少しのお金でも生きていけるのです。しかし、長年にわたるストレスで生命力の低下した人に、「住む家があるではないか、家族がいるではないか」と言っても、それらはすべて負担でしかないのです。