頑張ることに力尽きた「燃え尽き症候群」

うつ病者ばかりではありません。燃え尽き症候群の人も同じす。長いこと無味乾燥なことをしてきたのです。

ただ頑張ることだけで生きてきたのです。燃え尽きたということは、「もうすべてが嫌になった」ということです。

もうその無味乾燥な仕事をすることに耐えられなくなったのです。力尽きたのです。燃え尽き症候群の人は、不安から逃れるため無味乾燥なことをして生きてきました。

しかし、いまはもはや不安でも逃れる気力さえなくなってしまったのです。あまりに寒い時、肉体的に感覚がなくなります。それと同じです。

うつ病になる人や燃え尽き症候群の人は心理的に麻痺したのです。もはや嬉しいとか、悲しいとかを感じる能力は残っていません。もともと燃え尽き症候群の人にしろ、うつ病になるような人にしろ、その人自身の中にエネルギーがあるわけではないのです。

ただ人に認めてもらえない不安や恐怖で動いていただけです。だからいつかは倒れるのです。

孤独の恐怖があるからこそ無味乾燥なことも耐えられたのです。。その無味乾燥なことをするのも、それをしなければ独りぼっちになると思うからです。

その不安がみればこそ頑張ってしてきたのです。しかしそれにも限界があります。供給されるエネルギーがなくて、ただ恐怖から頑張るだけではいつか力尽きてしまうのです。そんな状態が続けば、ストレスから脳がおかしくならないほうが不思議です。

彼らは食糧の補給路のない前線部隊のようなものです。どんなに頑張って前線で戦い続けても、いつかは力尽きてしまいます。ストレスにさらされ続ければいつか心は壊れます。

うつ病になるような人や燃え尽き症候群の人には、もともと「したいこと」など何もなかったのです。「したくないこと」しかなかったのです。しかし、その「したくないこと」をしなければ、恐ろしい孤独が待っていたのです。周囲からの蔑視が待っていたのです。「追放」という恐怖があった。軽蔑されることも、嫌われることも、仲間から追放されることも怖かったのです。

だから来る日も来る日も「したくないこと」をし続けたのでしょう。来る日も来る日も「したくないこと」をし続けるうちに、ストレスから脳がダメージを受けても何の不思議もありません。

うつ病になるような人や燃え尽き症候群の人のまわりには、ずるい人が集まっていることが多いのです。

うつ病になるような人や燃え尽き症候群の人は、周囲の人から不愉快な顔をされると、怯えてどんな嫌なことでも疲れた体に鞭を打ってしてしまいます。彼らは、周囲の人から責められて生きてきたのです。

したがって大人になった時には、責められていなくても責められていると感じてしまうようになっています。

憎しみで身を焦がすうつ病者

「ひとが楽しそうにしているとますます心が暗くなる」ということのもう1つの意味は、「悔しい」です。

皆が楽しそうにしている情景で憎しみが刺激されます。そして、「何で自分だけがこんなに辛いのだ」という不公平感が生じてきます。何で自分の人生だけがこんなに苦しいのだという恨みでもあるのです。

恋に身を焦がすという表現がりますがが、うつ病者は憎しみに身を焦がしているのであるのです。そしてそれにうつ病者自身が気がついていないのです。

人間の基礎づくりの時期に土台ができなかった

無力に生まれて、仲間として育てられ、そこで食べ方も、歩き方も教わります。しかしそれ以上に大切なのは、仲間といることを教えられます。

そこでコミュニケーション能力を身につけていきます。うつ病になるような人の場合、それを教えるべき肉親がその人を仲間はずれにしていじめるのです。

小さい頃のいじめは、大人になって会社に入っていじめられるのと大きく異なります。人間としてもっとも大切な基礎をつくるところで、基礎を滅茶滅茶にされてしまいます。土台づくりをする時期に、土台をつくらせないのです。こうして生きる土台がないまま人生をスタートする人もいるのです。それ以後どのような環境になっても、その素晴らしい環境は、かけ算でゼロをかけられた数字のようにゼロになってしまいます。

肉親は、天使にもなれば悪魔にもなるのです。天使になれる力があるから、悪魔になれるのです。

うつ病者の「ひとが楽しそうにしているとますます心が暗くなる」という言葉は十分に考える必要があるでしょう。

普通は「ひとが楽しそうにしていると自分も気が晴れる、明るくなる」。しかし逆に「暗くなる」ということはどういうことでしょうか。

それは「なんでオレだけが、こうなんだ」という気持ちが強いからです。うつ病になるような人は、普通の人と違って自分は特別に辛い人生を生きていると思っています。その不公平感がうつ病者を苦しめているのです。「なんでオレだけがこんな辛い思いをしなければならないんだ」という無念さです。