周囲から心理的に拒否されてきた

彼らは「ひとが楽しそうにしているとますます心が暗くなる」と口を揃えます。この言葉には2つの重要な意味が隠されています。

1つは疎外感です。他人と自分の間に共通性がないと感じています。この言葉に、うつ病者がいかに長いこと周囲から感情的に拒絶されてきたかが分かります。

彼らの淋しさを表しているのです。フロム・ライヒマンがいうようにうつ病者は愛を求めていたのです。しかし、小さい頃から心理的に仲間はずれにされてきたのです。

たとえばうつ病になるような子はその家族の中で優秀な子が多いから、家族の中で嫉妬からいじめられています。いじめられた子はいつも独りぼっちという感覚に陥ります。

肉親の嫉妬は、体験をした人でないとなかなか理解できないところもあります。それは.すさまじいものです。

皆で楽しそうに笑っている人と、それを見て心が暗くなる人との違いを分からないかぎり、うつ病者を理解することはできないでしょう。

うつ病者は淋しいのです。皆と仲間になりたいのです。しかし小さい頃から感情的に拒絶されて生きてきているので、どう仲間になっていいか分からないのです。

ここで「拒絶」という意味は、・相手にとって都合のいい存在にならないかぎり、受け入れられないということです。

また周囲の人の心の慰み者のような存在になっているということです。そこでうつ病になるような人は、いつも仮面をつけて生きてきたのです。

人は、自分が受け入れられているという実感がなければないほど仮面をかぶるのです。仮面の厚さと自信のなさは正比例します。自分が受け入れられているという自信のある人は屈辱感がないのです。

自信のある人は、小さい頃自分の内面を見せても蔑視されて孤立しなかったのです。その集団から追放されなかったのです。

しかし、うつ病になるような人は違った。人はありのままの自分を受け入れられることで、周囲の人への信頼感が生まれる、愛されているという実感を持つでしょう。

したがってうつ痛になるような人は、皆が楽しそうにしていればしているほど、孤独感が刺激されてしまうのです。自分は仲間はずれだという淋しさが刺激されます。そして、それに耐えられなくなってどうしようもなくなるのです。

その重苦しさを「心が暗くなる」と表現しているのです。

彼らはもうどう生きてよいか分からないのです。人間はやはり仲間に受け入れられたい。それが基本的な欲求です。しかしそれが心理的に感情的に拒否されているのです。その苦しさに悲鳴をあげているのです。

人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい

親さえいなければ…もう少しまともに生きられたかもしれない

親のいない子を普通の人は「かわいそうに」と言います。しかしうつ病になるような人から見れば、「親のいない子は何と幸せなのだろう」ということです。

「親から心理的に搾取される」ということが理解できないと、うつ病者を理解することはできません。

うつ病者は「親さえいなければ」、何とかもう少しまともに生きられたのです。

親によって脳がダメージを受けた時、普通の人はそれを理解しょうとしません。その親さえいなければ脳はもう少しまともだったに違いないのです。

後にも説明しますが、偉大な精神病理学者フロムエフイヒマンが言うように、うつ病者は愛を求めていたのです。これをすれば、愛をくれるだろう、これに耐えれば愛をくれるだろうと子供は親に尽くし続けたのです。

悪い男に引っかかった女を考えてみれば分かるでしょう。愛を求めているから、男の言うなりになります。恋に落ちた女は悪い男から搾取され続けるでしょう。恋愛も親子関係も同じです。

愛を求めている側が弱い立場になる。これをすれば「良い子と言ってあげる」ということで、子供は自分を曲げて頑張り続けます。「こぅなれば愛してあげる」ということで、子供は親にとって都合の良い子供になります。そうしているうちに心は憎しみでズタズタになっているでしょう。

憎しみの感情で脳は変形しています。幼児期、少年期、青年期を通しておかしくなった脳は、そう簡単にまともにはなりません。

吐き出されない憎しみの感情に支配されることで、その人は最後には心理的に閉じこもるのです。

もう誰も自分のことは分かってくれないと閉じこもります。周囲の人にとってはその人が何で閉じこもったかは分かりません。その人が何で憎しみを持ったかは分かりません。

その人が何を求めているかも分からないのです。愛を求めているがゆえに閉じこもったのです。愛を求めているがゆえに憎んだのです。

現代の子供たちの大変な現状 | 現代人のストレス

体のけがは目に見えるが、脳のけがは目に見えない

うつ病者は心理的には崖っぷちで何かをしているということが理解できないと、なかなかうつ病者の言動は理解できません。

外側だけを見ていけばうつ病になる人は、時に、「あんないいことばかりして何が不満なんだ」と思われることも多いからです。

うつ病者は正体不明なものに脅かされています。何でこうなるのかが本人も理解できていません。うつ病はモラルの問題ではなく、脳内化学物質の問題であるという点の理解が大切です。

このことはアメリカのニュースがうつ病特集をした時に繰り返し解説されていました。

足に怪我をすれば周囲の人にはよく分かるでしょう。しかし脳の中の変化は外には見えません。

ある時、テレビで視覚障害者がサッカーをしているところが放映されました。すると皆が「偉い! 」と口を揃えます。しかしうつ病者がサッカーをしても「すごい!」と言わないでしょう。眼の機能が完全でも、脳の視覚を司る部分が機能不全に陥ればものは見えないのです。聴覚も同じです。

耳の機能が完全でも脳の聴覚野が障害を持てば聞こえません。傍から見てその人は何かができるように見えるかもしれませんが、外から見えない脳に障害が出れば実際にはできないでしょう。

うつ病者が何もしないでいる姿を見て、人はうつ病者の「やる気」のなさを批判します。見るのも聞くのも、脳で見て脳で聞いているように、人は何かを脳でしているのです。

うつ病はその脳の障害なのです。その点でうつ病者は不当な批判にさらされてきたと言うべきでしょう。

「できない」ということが普通の人に理解できないからです。足の裏に怪我をした人が「歩けない」と言えば普通の人は理解できます。しかし、五体無事なうつ病者が「歩けない」と言っても、普通の人はなかなか理解できません。それは人は足で歩いていると思っているからです。

人は足で歩いているのではないのです。人は脳で歩いているのです。うつ病者はその脳が傷んでいるのです。足の裏の怪我は見えるが、脳の怪我は見えないということです。