憎しみを気づかれまいとすると緊張感で消耗する

生きることに疲れたあなたは真面目に生きてきました。しかも犯罪という形で憎しみを吐き出すこともなく生きてきました。

憎しみの感情を心の底に押し込めて生きてきました。あなたは真面目であることが望ましいことと思い、真面目を信じて生きてきました。

たとえば、うつ病者などは真面目でありさえすればいいと思っています。しかし真面目な自分の心の底に何が堆積されているかには注意を払わなかたのです。よく人は人生に疲れたといいます。生きることに疲れたといいます。しかし人生に疲れたのではないのです。

生き.ることに疲れたのではないのです。正確には憎しみを抑圧することに疲れたのです。あなたは真面目に生きてきましたが、自分の憎しみの感情を吐き出すことはなかたのです。

その憎しみの感情を吐き出すことができないで、内的緊張を強いられてきましt。心の底で思っていることを言わないことで人は消耗します。だから何もしない人がいつも疲れていたりするのです。

外側では何も見えないが、内面ではものすごい衝突が起きて、その衝突でエネルギーを消耗してしまうのです。

思ったことをなんでも言ってしまう人は、外側は動いているようで、じつは心は疲れません。

心の中でいつも衝突をしている人は、川の流れをいつもせき止めているようなものです。

思ったことを何でも言ってしまう人は、川の流れがスムースに流れています。だから疲れないのです。

あなたは心の底で人を憎みながらも、周囲にいい顔をしてきました。それが消耗の原因です。

生産的な仕事にエネルギーを使わないで、心の中の衝突でエネルギーを消耗してしまったということです。

さらにもう1つ消耗する理由があります。それはその心の底の憎しみを周囲の人に気づかれまいとするからです。自分の心の底の憎しみを周囲の人に気づかれまいとすることが自分の中に心理的な緊張感を生みだし、その緊張感がエネルギーを消耗してしまうのです。

 

人を動かすもっとも大きなものは「憎しみ」

人は、「あなたはなぜあるものを見ないでないものばかり見るのか」と言います。しかし「これがない」と言えるかぎり相手を責めることができるのです。

「私は苦しい」と訴えることで心の底にある憎しみを晴らしている以上、「私にはこれがある」と言ってしまったらもう心の底の憎しみを晴らせなくなってしまうのです。彼らは自分が不幸せの中にいることで心の傷が癒されています。

これはもともと楽天的な気質を持って生まれ、愛された人にはなかなか想像ができません。だから他の個所で述べたごとく、うつ病者は「皆が楽しくしていると心が暗くなる」のです。

周囲の人の幸せと自分の不幸は正比例してしまうのです。だから周囲の人の不幸が嬉しいのです。人が幸せになるためには、憎しみの感情が取り除かれていなければなりません。

しかし憎しみの感情はなかなか取り除かれることはありません。憎しみは怒りの感情のように一時的なものではなく、長年の積み重ねから生じているからです。

根雪のようにしっかりと地面に凍りついているのです。人は社会的経済的な要因による不幸に対しては、それを乗り越えるために闘えます。

しかし心の底の憎しみのように、心理的な原因による不幸とはなかなか闘えないのです。人を動かすもっとも大きなものは、フロイトの言う「セックス」でもなく、アドラーの言う「劣等感」でもなく、「憎しみ」です。そしてそれは幼児的願望が生みだしたもので間違いありません。

幸せになると相手を責めることができなくなる

また「辛い、苦しい」という感情が、愛を求める正当性の根拠です。だから「私は辛い」と言い続けるのです。自分の人生が辛いかぎり愛を求める正当な根拠があると思えるのです。

いま、ほんの少しのことで楽になったと感じたり、幸せと思えたり、楽しいと認めたら、相手を責められなくなってしまうのです。

楽しいことを体験して心がはずんでも、心がはずんだ自分を認めるわけにはいかないのです。そういう人に、「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と周囲の人が言っても意味がないでしょう。

「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と言うことが意味があるのは、心の底に憎しみのない人です。

幸せになりたいという願望が最優先している人です。憎しみを持っている人は、幸せになるよりも、憎しみを晴らしたいのである。相手を責めたいのである。幸せになりたいという願望は優先順位が低いのです。それに対して憎しみの感情を晴らしたいという願望は優先順位が高いのです。

誰だって幸せにはなりたい。しかし「幸せ」と感じてしまったら、もう相手を責められません。彼らは苦しいと訴えることで愛情を求めています。そこでとにかく幸せと感じることに抵抗感があるということです。