母親は子供の心のケアを行う

子供が怪我をする。「痛い! 」と言います。するとすぐに赤チンをつけて、「治るわよ」と言う母親がいます。

もっと酷い母親になると、「これだけの傷でそんなに痛いの?」と言い放ちます。子供は「痛い」ということを言っているのではない。「痛いけど僕は頑張っているぞ。偉いだろう、すごいだろう」と訴えているのです。

母親にその「強い自分」を認めてほしいのです。軽い傷を大袈裟に騒ぐ子供は、決して「痛いのを治してくれ」と言っているのではない。そこを間違えるから子供はいよいよ騒ぎ、すねるのです。

熱があるというとすぐに解熱剤を飲ますような母親がいます。これでは母親ではなく、医者です。医者の役割と母親の役割は異なります。母親の役割は心のケアでです。

また、何かにつけてマイナスの発想をする夫がいます。たとえば、「いまの時代はオレの会社はリストラの嵐で人手不足で大変。もうじきオレも倒れるかもしれない」と言います。

すると「少し休めないの? 」とか、かくかくしかじかのようにプラスの発想をするべきだと言う妻がいます。夫が求めているのは妻の対策やプラスの発想ではありません。「そんなものすごい時代に、リストラの嵐の中で頑張っているあなたはすごい」と妻から認めてもらいたいのです。

人がマイナスの発想をするのは、認めてもらいたいからです。愛情飢餓感がマイナス発想の原点です。物事の解釈の中にその人の心の底の感情が表現されます。

人がマイナスの発想をした時に、そのことを考慮に入れないで、「こういうプラスの発想をするべきだ」と言えば、相手を不愉快にするだけです。人は理由もなくマイナスの発想をするのではないのです。

プラスの発想、プラスの発想と騒いで、いよいよ相手を不愉快にする人がいます。本人はマイナスの発想をする相手を励ましているつもりですが、実際にはいよいよ相手のやる気をなくさせ、落ち込ませ、不愉快にするだけです。

 

大人も認められたい

子供が親に認められたいのと同様に大人だって認めてほしい。この「認めてほしい」という気持ちをくみとり損なうから人間関係がうまくいきません。

子供でも大人でも、「すごいね~」と誉めてもらうために、あることを話題に出してくるということは意外に多いのです。自分のしたこと、あるいは自分の立場などを認めてもらいたくて、あることを話題に出します。

夫は家で会社のことを話題に出します。たとえば部下のできの悪さを話題に出します。それはそのできの悪い部下に耐えている「オレはすごいだろ~」という意味です。夫は妻から誉めてもらいたいのです。

それは部下でも上司でも恋人でも関係ない、たとえば夫が同僚について「押しが弱い、何事も事なかれ主義で、はっきりと物事を言わない」と言ったとします。

そこで妻が「ハッキリと、あなたのこういうところが嫌いだとなぜ言えないの」と具体的な解決策を言ったとする。ところが夫の求めているのは解決策ではないのです。

妻の「あなた、会社で大変なのね」というねぎらいの言葉です。それを妻が単に「できの悪い部下の話題」「優柔不断な同僚の話題」として扱うから夫は不愉快になるのです。つまり妻は夫の話を聞いた後で、「それに耐えているあなたはすごい」と言わないで、具体的に「こうしたらいいのではないか」と提案したので不愉快になったのです。

夫はそんな具体的な提案を妻から聞くために、部下や同僚のことを活しているのではないのです。「上も下もだらしがない中で、あなたは頑張っているのね。すごいわ。とても私なんかにとても真似ができないわ」と認めてもらうために会社の人間を話題に出しているのです。

子供は親に認めて欲しい

生きることに疲れた人は、人に認めてもらおうと無理をして頑張りすぎた結果です。人は、周囲の人から「認めてもらいたい」という欲求の強さで生き方を間違えてしまいます。

「認めてもらいたい」という欲求は、幼児期に愛されなかった人間には想像を絶するほど強いものです。普通の子供でも、何よりも望んでいるのは「思いやり」ではないのです。自分のしたことを「認めて」ほしいのです。

たとえば子供が母親に、「お母さん、荷物が重いでしょ。一緒にお使いに行ってあげる」と言ったとします。

母親は子供が遊びたいのに、お使いに連れて行くのは可哀想だと思って、「いいわよ、お母さん1人で行くから」と言いました。ところが子供は不愉快そうな顔をしました。母親は子供が遊びたいだろうと思って、「いいわよ、お母さん1人で行くから」と言ったのです。

それなのに子供はふてくされてしまいました。母親はとまどいました。子供は母親の役に立ち、認められたかったのです。

お使いに行って、母親から、「助かったわー」と言ってもらいたかったのです。そういう感謝の言葉を言ってもらえることが嬉しいのです。子供は、「お使いに行ってあげる」という自分の気持ちを感謝してもらいたかったのです。

ところが母親は「自分1人でいい」と言いました。子供は役に立つ機会を失った上に、母親から感謝をしてもらえないし、お使いに行くことで「認めてもらおう」としたが、それもできなくなつたのです。子供が面白くない顔をするのは当たり前なのです。

子供は親に何かをしてもらうことはたしかに嬉しいものです。保護を求めているし、世話をしてもらいたいのです。しかし、それ以上に求めているものが「自分のしたことを認めてほしい」ということです。

うつ病者も自分が「役に立っている」と感じる時には気分が好調です。子供は自分のしたことを「わー、すごい」と認めてほしい時に、認めてくれないと悔しいし、面白くないのです。不愉快です。相手を憎む。投げた石が木に命中した時に「わー、すごい」と認めてほしいのです。

しかし「お使いに1人で行く」と言った親は親で、子供のことを考えて言っているのにと子供のは不満に不満なります。あるいはそれ以外のことを含めて親として「こんなにしてやっているのに」と、子供の不満に不満になります。

不満になった子供だって親がしてくれたことは知っています。旅行に連れて行ってくれた、好きなお料理を作ってくれた、服を買ってくれた、病気の時に病院に連れて行ってくれた、お誕生会を開いて友達を呼んでくれた。しかしそれと「認めてほしい」という願望が満たされるか満たされないかは別の話なのです。子供は、何をしてもらっても親が「認めて」くれなければ不満です。