自分と関わりのある人に迎合する

心に葛藤のある人は人を操作します。心に葛藤のある親は子供を操作します。子供をおだてたり、脅したりしていいように子供を操作するということです。

さらに子供を嘲笑したり、からかったりしながら自分の心の傷を癒します。親は子供自分の心の慰みものにします。

つまり子供は心に葛藤のある親の玩具です。子供は親にもてあそばれているのです。

「親にもてあそばれる」などというと、少し恐怖を感じますが言葉にすればそういうことです。

しかし、人は小さい頃、人形やぬいぐるみでむしゃくしゃした感情を晴らそうとします。そして、大人になっても幼児的願望が満たされていない人がいます。そういう大人は人形やぬいぐるみでむしゃくしやした感情を晴らすかわりに、子供で自分の感情を晴らそうとして何の不思議もありません。

従順な子供は、親にとって人形やぬいぐるみよりずっと効果的に感情を晴らす道具に最適なのです。。

子供はこうして親にもてあそばれると、大人になっても、周囲の人からもてあそばれることを受け入れるような人間になってしまいます。人は、まず親との関係で人とのつきあい方を学びます。

親にもてあそばれた子供は、もてあそばれることが、それ以後の周囲の人とのつきあい方になってしまいます。そして知らず知らずのうちに周囲の自分と関わる人に自分をもてあそぶ人を集めてしまうのです。

また、ずるい人はつねに餌を探しているから、そのように従順な人をすぐにかぎ分けることが出来ます。そしてその人に近づき、その人から甘い汁を吸うだけ吸います。親にもてあそばれて成長した人は劣等感を持ち、目的もしっかりもつことができません。ただ八方美人で周囲の人に迎合するのです。ただ周囲の人に気に入られたいと思うのです。

親子の逆転現象

親が色あらゆることをします。でも、それはすべて子供の反応を期待しているからです。だから、子供は親の期待する反応をしなければいけません。

これによる子供の心の傷は想像を絶するほど大きいものとなります。放任されて育った子供はまだマシです。親の愛はゼロだからです。しかし愛を与えられるのが自然な時期に、逆に愛を搾り取られてしまう悲劇は、人間の想像力を超えるものとなります。憎しみの感情が心の底に堆積し続けてしまいます。

それよりも大きな悲劇は、この「親子の役割逆転」に苦しめられた子供の心の傷は、多くの場合、周囲の誰からも理解されないということです。

というのは、「親子の役割逆転」をしている時には、外から見るとその親子関係はうまくいっているように見えるからです。そして、「あのように立派なご両親の元で」となりかねないのです。

事実、「親子の役割逆転」をして、子供から愛を搾取している親が、社会的には立派に職責を果たしているケースも多々あります。

地域社会の模範的な家庭から政治的過激集団に入る兄弟が出る場合があります。3人の兄弟がすべて入った例もあります。

彼らは社会に向かって鉄砲を撃ち続けることで憎しみの感情を吐き出しているのです。吐き出すことで自分の心を癒しているのです。心の傷を癒そうとした時に、暴走が始まります。

心に傷のないものがどうして暴走などするものでしょうか。しかしそのような犯罪を犯せない抑制型の人は、その憎しみの感情を吐き出す機会がありません。そういう人は心の葛藤でエネルギーを消耗する。生きることに疲れる人はこのタイプです。

「親子の役割逆転」という形で、親から愛を搾取されている間に、子供は敵意、憎しみ、恐怖、恨み、不安と、あらゆるマイナスの感情を心の底にためてしまいます。それが大人なってからその人を動かします。それはもうどうしようもないものです。

雨が天から降るように、どうしようもないものです。それを抑えればうつになるしかないでしょう。うつになる以外に生きる方法はありません。

愛されて育った人にこの気持ちを理解してくれと言っても無理な話です。生きることに疲れた人は、なぜ生きることに疲れたのかをなかなか理解してもらえないのです。

 

 

心の底に苛立ちと憎しみがたまっていく

こういうように責められて育っている人は、心の底に憎しみの感情が堆積しているのは当然です。だからこういう人は人が好きではありません。会話も下手ですし。相手が不機嫌になることが怖いから気楽にものが言えないのです。

「ケーキ食べる?」と聞かれたら、「ワー、嬉しい」と答えなければ親から激怒されます。「ワー、嬉しい」という心の反応が親は嬉しいわけです。これが親が子供に甘えているということです。

そして甘えられない時に親は怒ります。親は自分の甘えの気持ちが傷つくと怒りだします。

そうした体験を積み重ねていれば、何を言う時も、相手の気持ちを傷つけないように、気を使うようになるのは当然です。しかし、これでは会話は成り立ちません。そういう人は大人になっても、いつも何となく人が怖いのです。

コミュニケーションができるとは、本当は食べたくない時に、「食べたくない」と言えることです。世の中には、「オギャー」と生まれた時から責められて育っているような人もいます。そういう人は、人が責めていなくても、責められていると感じてしまうように育ってもおかしくないのです。

被害妄想という言葉にならっていえば、それはまさに「被害妄想」です。「オギャー」という声が「怖い、怖い」という声のように、生まれた時から怖いと感じている人もいます。

そして、その人が30年、40年、50年とたてば、生きることに疲れるのは当たり前です。家の中にガソリンがあります。家の前で誰かがたき火をすれば誰でもビクッとします。被害妄想のある人は、心の中にガソリンがあるようなものです。

誰かが何かを言えばビクッとします。小さい頃、周囲の人から甘えられた人は、心の底に憎しみを持っています。自分が幼児的願望を持っているのに、他人の幼児的願望を満たす役割を背負わされてしまった人は悲惨です。これは心理的にはまさに地獄です。