相手の不機嫌が怖い

親が子供に甘えるのは、「親子の役割逆転」です。子供は、親の甘えの欲求を満たさなければ責められてしまうでしょう。

この場合、子供は完全に「甘えの欲求」を否定されているということになります。「親子の役割逆転」をして育った人は、人の好意を怖くて断れません。大人になってもその感情的記憶は残っているのです。

大人になつて、いくら「食べられない時には、残しても責められない」と自分に言い聞かせても、やはり残すのは怖いのです。いま目の前にいる人は、母親と違って「残しても責めない」と意識で分かっても、食べ残すことの恐怖は残ります。それが感情的記憶です。

知性が記憶しているのではなく、感情が記憶しているのです。幼児期や少年期にできたニューロン(神経系の情報伝達の単位となる細胞) のネットワークは、そう簡単に作り替えられるものではないのです。

そうした環境の中で育てば、自分が何か言うことで、相手が傷つくことを恐れる大人になります。

ドイツの精神病理学者テレンバッハのいう「加害恐怖」に陥ってしまうのです。相手が不機嫌ということは、そういう人にとっては責められていると感じます。だからそういう人は、大人になってからも相手の不機嫌にいつも怯えています。

たとえば、大人になっても人の好意に「ノー、サンキュー」と言えません。友人から夕食に招待されて料理をたくさん作ってくれた。おいしく食べた。しかし、もうこれ以上食べられない。でも「もうお腹がいっぱいだからけっこうです」と断れないのです。

なぜ断れないのでしょうか。それは幼児期にそのような対応をすると、地獄の体験をしたからです。つまり、「もう食べられない」と言った時に、母親がものすごく不機嫌になった記憶があるからです。

母親が「ケーキ食べる? 」と聞く。子供は本当は食べたくない。でも「食べたくない」と答えた時に、母親がどのくらい不機嫌になるか体験しているのです。そして、不機嫌の後、さらに延々と責めさいなまれるという地獄の体験をしているのです。そこで小さい頃から、「ケーキ食べる? 」と聞かれた時には、考える余地なく、喜ばなければならないのです。

甘え欲求が強い人は傷つきやすい

人は、甘えたい時、甘えられないと傷つきます。甘えの言葉が拒否されたり、甘えの態度が拒絶されると傷つきます。年齢に関係なく、甘えの欲求を持った人は傷つきやすいものです。

甘えの欲求は、子供が親に村して持つものばかりではありません。子供だけでなく、親もまた子供に甘えたい欲求があります。

たとえば、甘えの欲求を持った親は傷つきやすくすぐに落ち込みます。子供の言動に酷く怒りやすくなります。ちょつとした一言で機嫌が変わり、子供に怒り出します。

子供に感謝をされたいからしたことを、子供から「ノー、サンキュー」と言われれば、母親は不愉快です。甘えの欲求を相手との関係で満たそうとしている人が相手に何かをするのは、相手のためではありません。相手から感謝されたいのです。

無力感を持った人の場合も同じです。感謝されたいのです。甘えの欲求が満たされていない親が子供のために何かをする。それを子供が感謝しない時には、親は面白くないのです。時には、子供に激怒する。甘えようとしている人にとって、相手から甘えられるほど腹の立つことはないのです。

甘えの欲求を満たされていない親が子供のために何かするのは、自分の甘えの欲求を満たすためです。

たとえば、「わー、おいしい料理」と言ってもらいたくて料理を作った。しかし、子供はそれほど喜ばなかった。そこで親は、グチグチグチグチといつまでも子供を責めさいなむことになります。感謝されると思ってしたことが期待はずれに終わってしまった。それは拒否ではないのだが、感謝されたいと思ってした人からすれば、拒否されたと同じです。そこで傷ついてしまいます。

下を向いて暗い顔の人には「甘えの欲求」を持っている

暗い顔をした人、恨みがましい顔をした人は、多くの場合、甘えの欲求が満たされていない人でです。

重苦しい顔をしているのは、「オレの甘えの欲求を満たしてくれ」と心の中で叫んでいるからです。

不満なのは、ほしいアメが手に入らないからではないのです。自分の甘えの気持ちを誰もくんでくれないからです。

五体不満足な人が元気な顔をしているのに、五体満足な人が不満な顔をしています。そんな時、人は、五体満足な人に「少しは考えろ」と言います。

しかし、言われるほうもそんなことは分かっているのです。しかし、不満な人はどうしても明るい顔ができません。

「苦しい」と言っても多種多様です。「経済的に苦しい」と言うと人は理解できます。また、目的に向かって頑張っている時に、「苦しい」と言っても理解してくれます。

しかし、「心に必要なものが与えられなくて苦しい」と言うと理解してもらえません。

心の苦しみを味わっている人は.、多くの場合、自分の苦しさの原因が分かりません。さらに不幸なことに、周囲の人にも理解してもらえません。しかし、じつは生きることに疲れた人にとって、これが一番大きな問題です。