生きるのに疲れてしまったのは

なぜそこまで生命力が衰えてしまうのでしょうか。それはあまりにも能力オーバーのストレスにさらされ続けて生きてきたからでしょう。

人は戦場のストレスは理解しています。実際には理解できなくても、ものすごいストレスだということに理解を示さない人はいないでしょう。

食程難の時代の苦しみは理解します。寒い時に着るものがないことの惨めさは理解します。長いこと食べるものがなく、寒さに耐えていたら生命力が衰えていくということに、「そんな馬鹿な」と言う人はいないでしょう。

しかし本性に逆らって生きることのストレスには理解を示しません。

たとえば、もしヘビが、生まれた時からまっすぐな竹筒に入れられて成長したらどうなるでしょう。ヘビの生命力はなくなるのではないでしょうか。食べるものがないのも苦しいが、本性を否定されることもストレスです。

そしてそれがどうしようもないと思サた時にその人の脳は変化を始めます。「長いこと本性を否定されて生きてくれば、生命力が衰えて当たり前なのである」生きることに疲れた人は具体的な困難で疲れたのか、それとも本性を否定されて疲れたのか、あるいは現実を受け入れられないから頑張りすぎたのかをいま一度反省することです。

もしあなたが現実を受け入れられないから頑張りすぎたのなら、生きることに疲れたこの機会に反省することです。そして自分の限界を受け入れることです。

もし周囲から自分の本性を否定されて、生きることに疲れた場合には、回復にはそれなりの時間がかかります。さらに周囲の人に理解を求めても理解を得るのは難しいかもしれません。

あるいはいままで「私はこれをしたい」というものが1つもなくて生きてきたのではないか。だとすればそのことも反省する機会です。

「私はどうしていつもこのような目にあわなくてはならないのですか? 」イソップ物語風に考えてみると人間の愚かさがよく分かるので、イソップ物語風に考えてみたいと思います。

「私を認めてほしい」といつも思っているウサギがいました。今日も何をしていいのか分からないウサギは、サルとヒツジが歩いている道を、サルとヒツジに誘われるままに同じように歩きだしました。

道中、サルとヒツジと同じような気分になれることで楽しい時もありました。ところが道が2つに分かれるところで、サルが、「この先から、私はこちらの道に行きます。この先に私の大好物の果物の木がありますから」と言って別れていきました。

ウサギは突然のことでどうしたらいいのか分からなくなりました。でも自分にはヒツジがいると思うと少し安心しました。しばらくすると夕方になりました。

ヒツジは「ウサギさんはどこまで行くのですか? 私はこの草原でしばらく休みます。もうしばらくすると友達が来ますからその友達とおいしい草の生えている草原に向かいます」とウサギに言いました。ウサギは、またまた突然言われて驚きました。自分はこの道を選んだのはサルとやみヒツジがいたからです。どんどん日が落ちてあたりは漆黒の閣となってしまいました。

誰もいない草原でウサギは星に向かって言いました。「私はどうしていつもこのような目にあわなくてはならないのですか? 」友達が大学に行くから自分も行こうと考える。そしてなんとなく大学に行く。親が有名な会社に行けと言うからその気になる。皆が偏差値の高い大学が良いと言うからその気になって、努力する。

でも歳をとって気がついたらまわりに誰もいない。生きることに疲れた自分は何をしたいかも分からない。生きることに疲れた時に初めて気がつく。有名大学を卒業したということで得意になっていたり、大きな会社に入れたと考えて安心していた自分は何なのだろうと。

「私はどうしていつもこのような目にあわなくてはならないのですか? 」という質問の答えは、「自分はこう生きよう」と考えることがなかったからです。人に認めてもらいたいということばかりに気をとられて生きてきたからです。ウサギは今日はとにかくゆっくりと眠ることです。明日の朝が来たら考えればいいのです。

 

死から逃げる気力さも失っている

生命力が低下してしまった人は、あまりにも多くの悲しみや苦しみを心の底に堆積し続けて生きてきました。孤独や不安や息詰まる緊張に耐えた長年の疲労が頂点に達しているのです。

長年にわたって時間に追われ、焦り、緊張して生活をしてきました。幸せを感じる能力はすでに麻痺しています。

もう何を言われても動けないのです。長いトンネルの先に明かりは見えません。

生命力の豊かな人は晴れた日に散歩をすれば気分がいいでしょう。しかし生命力の低下した人に、「散歩でもしてきたら」と言うのは無慈悲です。生命力の低下した人には散歩に出ようとすること自体がきついのです。

そして気分の良さを味わう能力そのものを失っているのです。うつ病者が何もしないでいることの原因について色々と解釈されます。

たとえば悲観的に物事を解釈するからであるとか、否定的に物事を見るからとか。うつ病者は将来を悲観的に解釈するから、何かをいまする気が起きないのだとか、うつ病者は自分自身をダメな人間と解釈するから、何かをいまする気が起きないのだとか、うつ病者は自分の条件をマイナスに解釈するから、何かをいまする気が起きないのだとかいいます。

おそらくそれらの解釈は部分的にはあたっているのでしょう。しかしうつ病者が何かをいまできないのは、基本的に生命力が衰えているからです。

そのままにしていれば死んでしまうという時に、生命力の豊かな人は逃げます。生き延びようとします。しかし生命力の低下した人は逃げないのです。

もう逃げる気力がないということです。逃げる気力がないからそのまま死を選びます。死を選ぶというより、選択する気力もなく、死んでいくのです。

生命力が衰えているということは、「もう生きなくてもいい」のです。もちろんできれば生きたい、しかし誰かが助けてくれるのでなければもう生きてはいけないのです。

「元気を出せ」は逆効果で生きる気力を失ってしまう

うつ病を生命力の低下と理解できないと、うつ病者に接する態度を間違えてしまいます。たとえば普通の人はうつ病になるような人に接すると「元気出せよ」となってしまいます。

罪責感に苦しみ、生命力の低下した人にこの種の言葉はきついものです。いよいよ生きる気力を失わせる。うつ病になるような人は生命力が低下しているから、何かを要求されることが辛いのです。

もう何十年も「元気を出さなければ」と義務感で「元気」を装ってきたのです。そうして気を張っているのが限界になったのです。気を張って生きることにあなたは疲れ果ててしまったのです。もう消耗し尽くしているのです。

生きるエネルギーはすでに枯渇しているのです。そこにさらに周囲の人から「元気出せよ」などと言われたら、いよいよ生きる気力がなくなるのは当然です。いよいよ死にたくなるのは当たり前です。

生命力の低下した人には、生命力の高揚した人の生活様式や価値観や言動はきついのです。だから生命力の豊かな人の善意の言動が、いよいよ生命力の低下した人を追い込んでしまうのです。

生命力の豊かな人は生命力の低下した人の心の傷に塩を塗るようなことをよくしてしまいます。

塩を塗って治ればいいのですが、実際には傷口を広げるだけで、治療効果がないばかりか、傷を悪化させてしまいます。

先に憎しみの説明の個所で「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と周囲の人が言っても、うつ病になるような人には意味がないとも言えます。このことについても同じです。

憎しみを持った人と同じことが、生命力の低下した人にもいえます。生命力の低下した人に、「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と言っても意味がありません。

生命力の豊かな人には、経済的に豊かな環境は意味がありますが、生命力の低下した人には経済的に豊かな環境は意味がないのです。

生命力の豊かな人は経済的に貧しくても幸せです。生命力の低下した人が経済的に豊かな時よりはるかに幸せです。

チャップリンの、「行動する力と想像力があれば少々のお金で十分だ」といった台詞を思い出します。

生命力の豊かな人は、まさに行動する力と想像力があります。これがあったらほんの少しのお金でも生きていけるのです。しかし、長年にわたるストレスで生命力の低下した人に、「住む家があるではないか、家族がいるではないか」と言っても、それらはすべて負担でしかないのです。