「励まし」は逆効果になる

外を散歩したのでは憎しみの感情が表現できません。憂うつになっている人が一番せっぱ詰まっているのは、心の底の憎しみの表現です。

それが憂うつな顔をしてじっと座っていることなのです。普通の人が憂うつな人を元気にしてあげようとする言動が、逆に憂うつになっている人をさらに追い込んでいくのが一般的です。励ます人の意図とは逆に、その人をもっと憂うつにしてしまうのです。

それは、じつと座って細々としている感情表現を止めさせるアドバイスだからです。だから「元気を出せよ」というアドバイスが逆効果しかあらわさないのです。

憂うつな人は具体的に気が晴れる方法を聞いているのではないのです。憂うつな人は気が晴れるために具体的に何をすればいいかを聞いているのではありません。自分のやりきれない気持ちを聞いてほしいのです。

そのやりきれない気持ちをくみとってほしいのです。よく不登校の人を励ましてはいけないというアドバイスがなされますがそのとおりなのですが、なぜ励ましてはいけないかという理由が説明されていません。

大切なのはその人の無念の気持ち、悔しさ、憎しみの感情をくみとってあげるということなのです。

彼らは「私を愛して」と叫んでいるのです。それなのに愛してくれないから憎んでいるのです。

たとえば不登校であれば、学校に行かないことによってその子が何を表現しているのかということを考えることが必要です。それを考えないで、単に「何も学校に行く必要はない」とか、不登校の生徒を集めて学校のような真似をするとかいう人が出てくるのはおかしな話です。

 

 

気分が晴れずにじっと座っていることが感情表現のひとつ

憎しみを表現できない不快感が積み重なり、それがいつしか憂うつに変化していきます。それがどうすることもできない憂うつな感情です。

憂うつは愛を求めている叫びですが、同時に表現されない憎しみの感情でもあるのです。憂うつな感情に苦しめられている人が、晴れ晴れしないというのはそのためです。

愛を求めつつ、憎しみを持ちます。憂うつはまさにうつ病者の感情的特徴です。

憂うつになっている人は愛を求めています。「苦しいのね」「辛いのね」とやさしく言ってくれる人を求めているのです。

それを普通の人は憂うつになっている人を見て「善意」から励ましてしまいます。「今日は晴れているから、ジョギングでもしてきたら」と言ってしまいます。

しかし、憂うつになってじっと座っている人は愛を求めているので、スポーツをして汗を流すことを求めているのではありません。普通の人はスポーツをして汗を流せば気分爽快になります。

それは心の底に憎しみがないからです。憂うつになっている人は、「なぜ自分だけがこうなんだ」という無念の気持ちをくみとってくれる人を求めているのです。

憂うつになってじっと座っている人だって、好きこのんでじっと座っているわけではありません。

どうにもならなくて座っているのです。動こうにも動けないのです。憂うつな人にとって、憂うつになつてじっと座っていることが一番楽なのです。それは憂うつになっていることで、一番感情表現ができているからです。

憂うつな人は感情表現ができない人です。じっと座って憂うつな顔をしていることが憂うつな人の感情表現なのです。

自分がないから人に振り回される

うつ病になるような人は、愛着と怒りが同時に発生し、怒りや憎しみの感情を処理できないまま、感情的に八方塞がりになっています。

自分がどういう感情を持っていいか分からなくなっているのです。幼児的願望が満たされていないから、周囲の人に愛着があり、離れることには不安があるのです。

かといって憎しみはあります。そういった、につちもさっちもいかない心理状態が、次のような言葉になって表れるのです。

「目のまえに壁が立ちはだかっているような気がする」「心にすきま風が入ってくるような気がする」「ぼっかり心に空洞ができた感じ」「二日酔い」の不快感である。

要するにこれは自分がなくなってしまったということです。自分の中の統合性が失われ、自分でも自分が分からなくなり、自分を感じられなくなっています。

自分の人生の目的がなくてまわりから振り回されてしまったから、自分がなくなってしまったのです。

幼児的願望が満たされないで、傷つき続けて、訳の分からない憎しみを持ってしまったのです。憎しみのうえに、さらに自分の人生を生きてこなかったという悔しさ、虚しさ、孤独感があります。

人のためだけに生きてきたというやりきれなさもあります。自分の人生の目的を持っていないと、周囲の人がその人を振り回そうとしなくても振り回されてしまいます。ましてその人を利用しょうというようなずるい人が現れた時には、いいように振り回されてしまうのです。