自分の失敗をありのまま打ち明ける

生きることに疲れたうつ病者は、何よりもいま自分の経験を人に話すことがとても大事です。うつ病者は自分の失敗の体験を話すことです。それを話せる人を探すことです。

もし見つからなければ日記でも何でもいいのです。安全なところに吐き出すことです。人に認めてもらうために無理したことを素直に話すことです。

生きることに疲れた人は、心の底にたまった恨み辛みのすべてを吐き出すことです。そうすればきっと幸せが手に入る。それで生きるエネルギーが戻ってくるでしょう。

「自分はこの時にこう感じていたけれども、そう思うのが怖かった」とか、「好かれたいからこうしたけれども、本当はするのが嫌だった」とか、「そのうちに何もかもが億劫になった」とか、自分の失敗の体験をありのままに話すことで、自分を出すのです。

そして生きることに疲れたうつ病者にとって大切なのは、自分のいままでの生き様を信じることです。

失敗したことは恥ではありません。それを肥やしにして幸せを手に入れるのです。「私はこう生きてきた」、それでいいのです。

人が失敗するのには失敗するだけの理由があって失敗しているのです。あなたはたしかに愚かな生き方をしました。ずるい人や卑怯な人に好かれようと無理をして生きてきたのですから。しかしあなたは何も好きこのんで愚かな生き方をしたのではないのです。止むに止まれぬ心の必要性から愚かな生き方をしたのです。

惨め中毒という病気

しかし生きることに疲れた人の中には、こうして憎しみの感情を吐き出すことすらできなかった人が多くいます。安易に正義を叫んで市民運動などに参加できない人たちです。生きることに疲れた人はストレートに憎しみの感情を晴らすことができないし、身代わりを選んで憎しみの感情を晴らすこともできません。

犯罪という形で心の底の憎しみを外に出すこともしない。愛されたくて頑張って、無理をして、そして消耗してきました。そこで生きることに疲れた人は、憎しみをまったく違った言葉で吐き出しているのです。

だから周囲から見れば惨めではないのに、彼らは惨めさを誇示します。「惨め中毒」という言葉が英語にあります。

アルコール依存症の人がいつもアルコールを飲んでいなければいられないように、彼らはいつも自分の惨めさを誇示していなければ生きていられないのです。

自分はいかに周囲の人から酷い日にあわされたか、いかに重い負担を不当に背負わされているか、いかに皆から不公平に扱われたかなどを延々と話していなければ生きていられないのです。

それはなぜか? それは、惨め中毒の人は、自分の心の底にたまった憎しみの感情をどうにもできないからです。その心の底に堆積した憎しみの感情を、惨めさを誇示することで吐き出さないではいられないのです。それが惨め中毒です。

生きることに疲れた人は惨め中毒にかかっています。消耗しているのが周囲の人の目に見えます。いかにも疲れてやつれています。だから周囲の人もあなたと一緒にいたいとは思わないのです。

人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい

もちろんあなたがそうした理由は分かる。他の個所でも書いたように、あなたは淋しいから、愛情飢餓感から人に気に入られようとしたのです。気に入られるために自分を出さなかった…というよりいや出せなかったのでしょう。

生きることに疲れたあなたが、かろうじて自分を出す時には、何かにかこつけて自分を表現してきました。

たとえば、憎しみをストレートに表現できないから、正義を主張することで憎しみを吐き出そうとします。正義を主張しないと、自分の怒りを表現できないから、正義を主張していただけではないでしょうか。

正義を主張する人がどうして日常生活がごまかしに満ちているのでしょうか。

戦争反対の正義を叫ぶ人の中に、隣人に冷たい利己主義者がいないだろうか。家族をほったらかしにして真理を叫んでいる人がいないでしょうか。正義や真理を唱えている人が、いかに実際の日常の隣人の心を傷つけていることでしょう。

彼らは正義とか真理とかを持ち出して、自分の怒りや憎しみの感情を表現しているのです。「人類を愛することはやさしいが、隣人を愛することは難しい」という格言にならって言えば、「正義を唱えることはやさしいが、人の幸せを喜ぶことは難しい」のです。正義や真理を唱えている人の中に、人の不幸にホッとした安らぎを感じる人がいるのは、彼らの心の底に憎しみがあるからです。

そういう人は、そのままでは自分の感情を表現できない弱さがあります。その弱さの実体が幼児的願望です。幼児的願望が満たされない愛情飢餓感です。