「不幸」は「愛してほしい」という心の叫び

人が文句を言うのは愛を求めているからです。「私は辛い! 」「私は不幸だ!」は、「私を愛して! 」という意味です。

「私を愛してくれないあなたが憎らしい」という意味です。「私は不幸」ということは「私をもっと愛してくれ」という愛の叫びなのです。

しかし周囲の人は、「あなたはこんなに色々なものを持っているではないか」と言にいます。「あなたは錦を着ているではないか」と言います。

彼らは「私をもっと愛してくれ」という愛の叫びが聞き届けられないので、ますます不愉快になり、いよいよ不幸を誇張するのです。彼は人生に、あるいは周囲の世界に復讐的になっているのです。

しかも彼は自分が周囲に復讐的になつていることを意識していないのです。「水を飲みて笑う人あり、錦を着て憂える人あり」という言葉があります。なぜ多くの人は水を飲みて笑う人になれないのでしょうか?

それはその人が愛を求めているからです。愛に満たされた人は「水を飲みて笑う人」になり、愛に満たされない人は「錦を着て憂える人」になるのです。

この世の中には、巨万の富に埋もれて不幸な人が数限りなくいることを人々は知っています。皆小さい頃に愛されなかった人々です。そして愛されなかったことに恨みを持って、絶えず人々を責めています。

だから、少しくらい快適な環境を与えられたくらいでは、なかなか「私は幸せ」と言えないのです。そう言ったらもう愛を求められなくなる気がするからです。

彼らは快適な環境よりも相手からの愛を感じたいのです。だから「私は不幸」と惨めな声を出しながら、相手を責めるのです。

「不幸」は偽装された憎しみ

不幸は偽装された憎しみです。彼らは自分が不幸であることで憎しみを晴らしているのです。不幸にしがみついている人は、不幸になるより他に憎しみの感情を表現する方法が分からないのです。

たがって周囲の人に憎しみがある以上、そう簡単に幸せにはなれないのです。周囲に自分が不幸であることを誇示することで、憎しみの感情のはけ口を見つけているのです。

不幸は憎しみの表現方法です。だから「私は不幸です」と訴えるごとで、憎しみで傷ついた心が癒されるのです。

「私は不幸です」と訴え続けている人は、生きる根元を忘れて、恨みを晴らすことで生きているのです。「私は不幸です」ということは「私は悔しい」という意味でもあります。

もちろん憎しみを込めて「悔しい!」と実際に口に出す人はうつ病などにはなりません。

周囲を実際に攻撃して恨みを晴らせばそこで終わりです。周囲に向かって「私は悔しい」とか、「私はあなたが憎らしい」とか言えない人が、「憎らしい」と言う代わりに「私は不幸です」と言っているのです。

それが相手と村立しないで憎しみを晴らす方法なのです。幼児的願望が満たされず、愛情飢餓感が強い人は相手と対立できません。相手が憎らしい…。しかし相手に愛着もあるので、「私はあなたが憎らしい」と言えません。

そうした時に「私は不幸だ」と言うのです。「私は太っているから不幸」と言う人がいます。そういう人は別に太っていることを解決する意志はないし、太っているから不幸とも本当は思っていないのです。

それなのに「あなたは太っていない」とんちかんな慰め方をする人がいます。中には「食べる量を少し減らしたら」などという解決策まで言う人がいます。

環境的に恵まれているのに「私は不幸」と惨めな声を出すのは、他人が悪いと思っているからです。

自分の不幸を人のせいにしているのです。相手に何とかしてくれと訴えているのです。

自分の不幸について、周囲の人に責任転嫁したい

もう1つの理由は、不幸を訴える人は、それによって周囲の人を責めているからです。何か良いことがありましたた。しかし周囲の人から「これであなたも幸せになれるでしょう」というような言い方をされると、彼らは面白くないのです。

彼はここで「私は幸せ」と言ってしまったら、もう周囲の人や自分の人生に不満を言えなくなつてしまうように感じるのです。

ある人は野原を渡ってくる風にあたって、「気持ちいいなー、幸せだなー」と思います。しかしうつ病になるような人は、たとえ「気持ちいいなー」と感じても、それで「自分は幸せだ」と感じることを拒否します。

「今日は晴れた、快適な気候だ、幸せだなー」とある人は感じる。しかしうつ病になるような人は、それを幸せと感じることを拒否します。つまり心の底の憎しみが消えていないから、「幸せ」とは言えないのです。

自分が幸せと認めたら、もう周囲の人を責められない。自分の不幸を誇示する人は、憎しみがあって人を責めているのです。

もちろん彼らは直接面と向かって相手を責めることはありません。しかし心の底で周囲の人を責めているのです。

自分の不幸について、周囲の人に責任をとってもらいたいのです。だから憎しみがある以上、どうしても自分が幸せとは認められないのです。うつ病になるような人やノイローゼの人が不幸な状況にしがみつくのは、それによって人を責めて憎しみを晴らそうとしているからです。周囲の人が、「あなたはこんなに色々と持っているではないか」と言っても不幸にしがみつくのは、憎しみがあるからです。

いま幸せになったのでは憎しみの感情が晴らせないからです。周囲の人は、彼が復讐的になっていることを認識していません。周囲の人は、彼が自分の運命や世の中や人々に復讐しようとしていることが理解できていないのです。

不幸を嘆いている人も幸せになりたいという気持ちはあります。しかしそれ以上に憎しみの感情が強いのです。

幸せになったら憎しみは晴らせません。幸せになるよりもまず「この憎しみの感情」を晴らしたいのです。

憎しみを持った時に直接相手を攻撃し、復讐の行動に出る人がいます。そういう人は案外簡単に憎しみの感情を晴らします。根には持たない。しかし憎しみの行動に出られない人は、不幸にしがみつくのです。「私は不幸だ」「私は苦しい」という訴えは周囲に対する憎しみを表現した言葉なのです。