惨めさを主張することで憎しみを表現する

生きることに疲れたような人がブツブツと、「私は傷つけられた、傷つけられた」と言い続けていることがあります。まわりの人は「そうかな?」と疑問に思います。

彼が「私は傷つけられた、傷つけられた」ということは、「私はあの人が憎らしい、許せない、殺したい」という意味です。日頃の憎しみの感情をストレートに吐き出せないので、「傷つけられた」と惨めさを誇張することで憎しみの感情を吐き出そうとしているのです。

それを周囲の人は、「皆はあなたのことをそんなに傷つけていないわよ、何か勘違いをしているのではないの」と言ってしまいます。周囲の人は、惨めさを訴えている人の言葉の中にある心理を読みとろうとはしません。

生きることに疲れたあなたが、「私は酷い目にあった、私はとんでもない目にあわされた」といつまでもいつまでも被害を訴えているとします。あなたはそう言いつつ周囲の人を責めているのです。

あなたは周囲の人に怒っているけれどその怒りを直接には表現できません。そこで惨めさや受けた被害を訴えているのです。

すると周囲の人は、「そんなに酷い目にあっているかしら? 私はそうは思わないけど」と疑問に思います。そこであなたはもっと深く傷つきます。

事実、あなたは実際にあった被害を誇張しています。周囲の人の言うとおり、あなたが言うほどあなたは人々から酷い目にあわされていないのです。

しかしあなたが、「私はこんなにも酷い目にあった」と事実を誇張するのは、その言葉で心の底に根雪となっている憎しみの感情を吐き出そうとしているからです。

あなたがその言葉で訴えようとしているのは、実際の被害の状況ではなく、日々吐き出されることなく心の底に積もり積もった憎しみの感情です。

「小さい頃から愛されることのなかった無念の気持ち」「私はこんなにも酷い目にあった」という誇張された言葉の意味は、「何で私だけがこんな目にあわなければならないのだ、私はあの人たちが憎らしい」という意味です。

「私はあの人たちが憎らしい、あなたたちを殴りたい」と、その人は言えないから、自分の惨めさを誇張することでそれを訴えているのです。

それはちょうど押さえ込まれた怒りが偏頭痛となって表現されるのと同じです。

それなのに周囲の人は実際に被った被害を説明して、あなたを「善意」から慰めようとします。「そんなに酷い目にあっていないのだよ」と説明して慰めようとします。

その結果、あなたはもっと深く傷つくでしょう。「私はこんなに惨めなの」と言うことは「私は惨めだ」という意味ではないのです。

私はあなたに怒っているという意味です。あなたを許せないという意味でもあります。日頃の怒りを表現しているのです。

生きることに疲れたあなたが何を訴えているかを、周囲の人は理解しょうとしないでしょう。

偏頭痛を訴える人を、頭痛薬で治療しようとするのと同じです。偏頭痛は痛みですが、それはその人の中に抑圧された怒りや憎しみがあることを告げています。あなたが自分の被った被害を誇張した時に、それが「小さい頃から愛されることがなかった無念の気持ち」の表れと理解してくれる人はほとんどいないのです。

物事の解釈の中にその人の心の底の感情が表現されるのです。だから生きることに疲れたあなたは、周囲の人の視点から解釈すれば、極めて倣慢な人であり、生い立ちという視点から見れば、本当に同情すべき人です。

うつ病の人の言葉を理解するには

うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人の気持ちからいえば、何も綺麗な家を望んでいるのではありません。だから、「おまえはこんなにキレイな家があるではないか」という言い方は、彼にしてみれば何の意味もないのです。

彼が望んでいるのは「辛いわね~」という同情と、それに堪えているあなたは「偉いわねー」という賞賛の言葉なのです。うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は「認めてもらいたい」のです。認めてもらいたいのに、「何もお金に困っていないのに」と周囲の人は言うから、「何も私のことを分かっていない」という言葉になります。

彼らは愛情飢餓感が強いから愛情を人以上に緊急に求めているだけです。

うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は、お金を欲しがっているのではないのです。「あなたはすごい」という社会的承認を求めているのです。うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人の「生きるのが辛い」という言葉は、「もっと私を認めてほしい」という意味であのです。

うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人と、心理的健康な人の間の会話には翻訳が必要です。じっは日本語から日本語への通訳のほうが、外国語への通訳よりも日常生活では大切です。外国語は通訳をしなければ、お互いに分かっていないと認識します。しかし日本語から日本語への通訳がない時には、お互いに分かっていないのに、分かっていると思っています。もし日本語から日本語へ正しく通訳できる人がいれば、世の中の人間関係のイザコザは半分以上なくなっているはずです。これは間違いありません。

自分の不幸を嘆く人のまわりに人は集まらない

うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人に、周囲の人は長い間にはたいてい嫌気がさしてしまいます。それは彼らが周囲の人に比べて経済的に恵まれているのに、何を言っても不運を嘆き、生きることの苦しさを言っているからです。

つまり彼らは何事においてもマイナスの発想です。お金に困っているわけでもなければ、怪我をしているわけでもない。失恋をしているわけでもないのです。うつ病になるような人や神経症的傾向の強い人は、それなのにいつも「私は不幸だ」と自分の人生を嘆いています。

毎日「辛い」と口にしています。そして何も言わなくても「辛い」という雰囲気を出しています。時には自分は一番不幸だと訴えます。

しかし、病気になって入院をしているわけではない。いや、それどころか普通の人より肉体的には健康です。そこで相談にのっている周囲の人は、嘆いている人に嫌気がさしてきます。そうして人々はうつ病になるような人や神経症的傾向の強い人から去っていきます。

「辛い、辛い」と嘆いている人から、人は離れていきます。それは大人でも幼児でも同じです。

「辛いよー」という幼児からは、次の遊びの時に、他の子は「嫌だ!」と逃げていきます。不幸は感染します。

隣の人も不愉快になってしまいます。不幸な人のいる部屋の空気は暗くなります。まわりも気が落ちこみます。だから不幸な人のまわりには人が集まりません。そしてそれまでいた人が去っていくのです。不幸な人は不幸を呼びます。

たとえば、大学の教授が暗い顔してすごい話をしても、学生は覚えていません。学生の頭に入らないのです。